「祖先へ万感の想いを込めて」


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菊池家十三代惣領 菊池次郎武重の末裔(菊池肇:血液型はB型)のHPです。このHPは肥後菊池家の歴史を振り返り、菊池家の発祥から現代までの姿を、嫡流子孫として、編集、掲載をしております。このため視点の相違により、歴史判断の分かれるところがございます。その点は、ご容赦頂ければと思います。ちなみに、縄文人の血液型は、B型やO型が多いそうですから私は「くまそ」の子孫なのかもしれません。また、菊池家の子孫で幕末の大御所西郷隆盛候の血液型もB型と言われています。


(公爵一條実孝候が、我が家を訪れ揮毫した忠誠の書)


一、
刀伊の入冠を撃退
初代菊池則隆の父藤原蔵規(まさのり)は、寛仁三年四月(1019年)大宰府権師藤原隆家のもとで刀伊の入冠を撃退して武名を挙げました。この戦は、日本領土に上陸した国外の侵略者と戦争をするという、我が国初の大きな国難でした。

二、
文永弘安の役で蒙古軍を撃退
竹崎季長の蒙古襲来絵詞で有名な、文永(1274年)、弘安(1281年)の合戦でも菊池武房率いる菊池一族は、蒙古(モンゴル)軍と戦い大いに武勲を挙げました。この時、神風(たぶん台風だろうと思いますが、)がふいてモンゴル軍の艦船は壊滅したと伝えられています。

三、
博多の鎮西探題を攻撃
元弘三年三月(1333年)菊池武時は、後醍醐天皇の綸旨を携えて、阿蘇氏、大友氏、少弐氏らと共に鎮西探題北条英時を攻めましたが大友、少弐氏の裏切りで善戦も空しく主君菊池武時と共に全員討ち死にをしました。

四、
菊池武重は、肥後の守に任ぜられ、後醍醐天皇に従う
御前会議の席において、楠正成公菊池武時の命を賭けた偉業を後醍醐天皇に進言されました。これを聞かれた後醍醐天皇は、菊池家に充分な恩賞を与えるよう命じたのです。菊池武重は、父武時の武功を後醍醐天皇に評価され肥後の守に任ぜられたのです。また、庶子の菊池武澄、武茂、武敏等も叙勲、対馬の守や豊後の守などの要職に任ぜられましたた。その後、足利尊氏が建武の新政から離脱し朝廷に反旗を翻したため、武重は後醍醐天皇のおそば近くに仕え全国各地を転戦しました。
ですから、楠正成公は、菊池家にとっての大恩人です。
現在でも、我が家では「替紋」として、楠正成公が後醍醐天皇より下賜されたと伝わる「菊水紋」に丸を付けて用いています。このような楠正成公との深い絆があって、武重の時代から「菊水紋」に丸を付けて用いていたのかもかもしれません。

五、
懐良親王を隅府城にお迎えする
興国4年(1343年)、後醍醐天皇の皇子懐良親王が、征西将軍として九州に下向、肥後国宇土にご到着して庶流の菊池(豊田)武光に迎えられました。その後、懐良親王は阿蘇惟澄の本拠地御船を経由、菊池家の居城である隅府城に入城されました。
このように、菊池家の忠誠が、強く輝いたのは、蔵規、武房、武時、武重、武光の時代でした。
一門に名声を残しましたが、一族や郎党の犠牲を考えれば、実に哀れ(あわれ)で不憫(ふびん)です。
戦国時代には、戦国時代の生き方があり、現在のような平和ボケ的時代感覚での評価は、
的はずれであり、祖先からもお叱りを受けるかもしれませんが?それでも、、、、。
今は、ただ、祖先の冥福を祈るばかりです。

菊池一族とは? 
菊池家子孫を名乗る九州肥後の武家集団名を、あえて菊池一族としております。しかし、血脈のない者も菊池姓を名乗りましたので、各々の出自を正確に表すため、あえて改名する前の姓を用いました。
菊池一族とは、菊池家=>豊田家=>阿蘇家=>詫磨家=>大友家 が、家督を奪い合いながら、嫡流ではない者も宗家の頭領として、朝家への忠誠を第一に、愚直なまでの忠誠を貫いた九州肥後の武家集団です。しかし、このため残念ながら、武家集団菊池一族としての血脈に継続性はありません。各々は、改名して菊池の姓を名乗りましたが、最終的には、菊池嫡流家から全く血縁のない菊池家となって滅しました。異なる血脈を持ったそれぞれの子孫ですが、今は全国に四散して菊池姓を名乗り代を繋いでいるものと推測しています。

歴史の教訓
他の者(嫡流家以外)が菊池姓を名乗り、代を重ねれば、血脈までも継いだことになるとでも考えたのでしょうか?そうでなければ、改名する必要はなかったでしょう。しかも、彼らは、後世に歴史の解明が進み、この歴史の顛末が白日のもとに晒されることを全く想定していなかったのでしょう。しかし、この行動は、いつまでも史実として残るのですから、いまさら取り消すことはできません。
子孫は、この歴史的事実から目をそむけず、自らを振り返り胸襟を正して人生を歩まなければなりません。
やはり、いつの世も、真摯に家門正方と共に龍華の暁を目指さなければなりません。

弓箭の家の宿命
弓箭の家(武家)の歴史は、「家系の継続を第一に、そのためには命を賭ける。」と、言う戦いの歴史でもありました。それは、現在の我々が考え描く時代劇に比するような、決して生易しいものではなく、さらに壮絶な終わりなき戦いでした。家督を相続した子孫は、その戦いの終結まで、戦いを継続する責務を負っていたのです。そのためには、決してあきらめない強い精神力や闘争心が必要でした。さて、我が家の戦いは、いつ終結したのでしょうか? 逃亡したまま、いつの間にか、あきらめてしまったのでしょうか? すでに、あきらめたから、逃亡したのかも知れません、、、、、、。私は、いまさら戦うことはないと思います。
しかし、事あらば、老骨ながら刀を抜く覚悟はできています。もちろん精神的な意味で、、、、。

菊池家の歴代家紋

家紋を変えた理由
家紋は、一族の守護神の旗印しとして、武運と勝利への想いを結集するためのシンボルとして、武家の必須アイテムでした。しかし、同じような家紋を持つ者が敵対、分家、家督を奪われた時、また、武運が振るわない時などは、勝利を願って家紋を変えたりもしたのでしょう。そのような意味で菊池家の家紋も変化したのかもしれません。現在の菊池を冠する家の家紋の多くは、「丸に違い鷹の羽」紋ですが、先のような理由があるからだと思います。菊池一族の係累は一系ではありませんから、家督を奪われ敵対する事になった旧宗家は、新宗家とは違う別の家紋に変える方が、むしろ、自然であったと言えます。
また、通常でも同じ家紋(旗印)を持つ集団が敵対すれば、戦場では戦いにくいでしょうから、家紋を変えなければ都合が悪かったのかもしれません。本来の嫡流家ではない者が菊池一族の宗家となれば、彼らは元来の家紋や苗字を捨てて、菊池家の家紋や苗字に変え、あたかも血脈を持つ者が代を自然に繋いだように見せる演出をしたのでしょう。
じつは、これは、ばればれでした。今になればカッコ悪いことですネ。
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菊 池 槍
箱根竹之下の戦いで、菊池武重は、急遽、青竹の先端に鎧通しを取り付けて戦いました。
これは、我が国で初めての槍を用いた戦闘でもあったと言われています。)

(上の写真は、菊池槍)

嫡流家の正道の精神


龍華樹紋様の帯戸金具)
上は、菊池武重が制定した「菊池家憲」末文に書かれた「龍華」の紋様を表す帯戸の金具です。周囲を、繁栄の象徴である唐草模様で飾り、龍華樹をイメージしたものと思われます。龍華樹は青梅のような実を付け、龍が百宝を吐き出す姿に似ていると言われています。宙に浮いているのが百宝かもしれませんが、龍華樹は想像上の樹であるためにその姿はだれも見たことはありません。このような姿をしているものだろうと、考えた祖先が残したものと考えています。祖先の想いは、菊池家があたかも龍華樹のように大きな一族となるように願い、この唐草模様のように、子孫の繁栄を祈念したのでしょう。
菊池武重の制定した「菊池家憲」
菊池武重は、新田義貞公の紹介で曹洞宗の大智禅師と出会い、大智禅師の教えとその人柄に深い感銘を受けました。延元三年には、国見山に鳳儀山聖護寺を建立し大智禅師を招聘しています。延元三年七月二十五日、武重は大智禅師の教えに従い、菊池家憲ともいうべき「寄合衆の内談の事」(よりあいしゅのないたんの事)を制定しました。菊池家の古文書の中で、最も重要で最も有名なものといわれ、花押、血判のある古文書としては、わが国で最古のものと言われております。武重が、この家憲を書かざるを得なかった当時の状況を想像すると、一族や家臣団の中に、下克上の波が大きく押し寄せていたものと想像します。子孫として、この時の武重の心中、察するに余りあります。
この文書は、大部分がかな書きで、解釈は細部においては明確でないかもしれません。漢字を当てはめると次のようになっています。
(寄合衆の内談の事には、民主的で平和的な儒教的精神が根底に溢れています。)

寄合衆の内談の事
一、
天下の御大事は内談の議定ありと云うとも 
落去の段は武重が所存に落とし着くべし
一、
国務の政道は内談の議を尚すべし武重すぐれたる議を出すと云う
とも 管領以下の内談衆一統せずば 武重が議を捨てられるべし
一、
内談衆一統して 菊池の郡に於いて訴えごと(争い、争議、訴訟)を禁制し
 山(お寺)を治して五常(五常とは、仁、義、礼、智、信を指し、人が守るべき五つの道徳)の議を磨し
家門正方(一門が正しい行動をして)と共に龍華(龍華樹=仏教上の想像の樹で高さ幅共に40里になると言われる大樹)の暁(朝)に及ばん事を念願すべし
謹んで八幡大菩薩の明照を仰ぎ奉る

延元三年七月二十五日 藤原の武重 花押血判

と、菊池武重は菊池一門が正道を歩み、竜華樹のように大きな一族として栄えることを願ったのでしょう。
約六百七十数年前の祖先の想いは、通常では子孫に伝わることなどあり得ません。
しかし、幸いにも我が家にはこの帯戸金具が残り、「菊池武重の心」を子孫に伝えたのです。
この精神を一族繁栄の礎として、血脈続く限り伝承し継承することを願っています

菊池武重の消息!
「武重は、歴史上消息不明とされていたが、、、」
「延元三年(1338)十月、築後に侵攻後、武重は生存していた!」
伊万里市二里の伝承から
菊池武重の消息については、異なるいくつかの伝承があります。その中には「人々の歴史観や都合が、そのまま伝承として残った。」と言う類の「人間のエゴとか欲のような理由。」による、創作された伝承も存在しているのでしょう。しかし、真実の情報が少しでも残っていれば、推量して解き明かすことは可能だとも思います。最近、私の調べたところ、歴史上では「消息不明」とされていた年代の武重の生存が確認され、その消息の一部が判明を致しました。その後の詳しい足取りはいまだに不明ですが、これから、少しずつ解明したいと思います。

歓喜院の伝承によると
現在、歓喜院跡にある武重の墓は、元々、同じ場所に古くからあったと当時の住職が主張するもので、江戸時代の文化十三年にその住職によって、現在の石碑が建立されています。その住職によれば「武重は、家督を弟の武士に譲った後、剃髪し歓喜 居士と称し、輪足村内の東福寺歓喜院に居住して仏道の修行をした後、興国三年八 月三日に死去した。」とされています。 東福寺の近くの「菊池肥後守武重朝臣之墓」は、文化十三年に、住職が石碑を建立したと言われていますが、菊池家の内部対立がすさまじい中で、武重がのうのうと仏道修行をしていたとは、どうしても考え難いと思います。

菊池家譜では
菊池家譜では、42歳で正慶2 年3月13日に博多で討死、とあります。この説は、武重の父武時の没年ですから、、、全くのでたらめです。菊池家内の対立は、よほどすさまじく、混乱の極みであったことが伺えます。
歴史上では
一般の歴史伝承によれば、延元三年(1338年10月)、武重は筑後に進出したが帰還せず「消息不明」または、「病を得て病死」とされています。この説は、「伝承その四」と合致していると考えています。武重が北朝との戦いに敗れ、目にケガをして佐賀県伊万里市二里に落ち延びていると言うことは、当時の秘密情報ですから、決して外部に漏れることはなかったのだろうと思います。このため、このように地元に伝承が残ったのでしょう。この説はある意味では正しいといえるでしょう。

伊万里市二里町の「取り追う祭り」から
伊万里市二里町の伝承によれば、延元三年(1338年)、北朝方に敗れた武重が、伊万里市二里町大里に逃れ、神原(かみのはら)八幡宮の神官になり、南朝の再起をはかるため火中、煙中、冷水中にも耐えうる精神を養うため火中訓練をしたのが始まりとされるお祭りがあるそうです。また、武重は、この戦いの時に大根畑でケガをして片目になったと伝えられ、お祭りでは大根を食べてはならないとされています。このお祭りのクライマックスには、833個の新米の強飯(こわいい)の御供(ごくうさん)の入った容器(ソーケ、デポと言う)を取り合う「取り追い(鳥追いではない)」があります。守り手は松明の火の粉を浴びせ、攻め手は、榊の枝でその火の粉を払います。ひとしきり合戦が続くと攻め手によって容器が明けられ、無病息災を願って、御供さんは集まっていた見物人や氏子たちに配られるそうです。
(これは、伊万里のホームページ二里公民館地域情報を参考にしました。また、伊万里市二里公民館様からも引用掲載及びリンクのご承認を頂いております。)

武重子孫所有の天道塚の春季例祭でも
以前(昭和36年頃まで)は、上の伊万里市のお祭りのように、東国常陸の諸沢にも春の例祭として、天道塚で氏子や子供たちに、小豆(あずき)の粒あんや黄粉(きなこ)、甘いすりごまなどのおはぎを配るお祭りがありました。お祭りの詳しい歴史や謂れは不明です。しかし、米を丸めたものを氏子や見物客に配り無病息災を願うと言う点では、伊万里市のお祭りと同じと言っても良いのだろうと思います。また、伊万里市の伝承には、詳しい年号や謂れも残っていjますので、武重は、伊万里市二里で戦の傷を癒した後、武家の身分をあきらめて東国に活路を求めたのかもしれません。武重の消息の一部が解明されたと思います。伊万里市の伝承が詳しく残っている点からも史実に最も近いような気がします。この類似したお祭りが、佐賀県伊万里市と武重の子孫所有の東国常陸の国の地(天道塚)で、50年前まで行われていたと言うことは、武重の没年は不明ですが、その足取りが少し解明されたと言えるのかもしれません。
推測ですが、、、
伊万里市二里のお祭りの伝承から推測すると、延元三年、武重はケガにより片目を負傷し、伊万里市二里に神原(かみのはら)八幡宮の神官として、しばらく留まったとのは事実だろうと考えられます。
肥後には連絡も取らず、隠れているようにして数年が過ぎてしまったので、肥後に戻っても自分自身や家来の居場所がないことと、ケガによる自身の体力の限界を認識することで武家として生きる事をあきらめ、活路を東国にもとめたのでしょう。ちなみに、我が家の氏神様十二所神社のお祭りでは我が家の代々当主が神主に代わり、誰にも礼拝の様子は見せずに、玉串をお供えし礼拝をおこなっていました。私も祭礼の時に、拝殿に上がり一人で礼拝をおこないました。現在は、私が鍵取り主を辞しましたので、そのような伝統も消えてしまいました。

千手観音菩薩立像と菊池家の関係

上の写真は、わが菊池家に残る小さな千手観音菩薩立像ですが、菊池家のかつての氏寺、輪足山東福寺にも千手観音菩薩立像があります。また、わが菊池家の氏神様、熊野十二所権現の本地仏も千手観音菩薩です。

菊池の読み方の変化
菊池の菊は、元来植物を意味する言葉ですが、読み方はくこくくきくへと時代的に変化したようです。従って、歴史に残る菊池の読み方は、狗古智(西暦200年代は、くこち、たとえば、魏志倭人伝の狗古智卑狗)=>鞠智(西暦600年代以前は、くくち、たとえば、古代の鞠智城)=>菊池(平安時代はきくち、たとえば、菊池家初代の菊池則隆)へと変わったようです。

わが菊池家の伝統食(団子汁
(茸、野菜、鶏肉などの具材に、細く延ばした団子が入ったもの)

歴史の真実
歴史は、現象ばかりではなく、現象の引き金となる見えない影の部分と表裏一体となっています。一般的に目を向けていない影の歴史にも、その本質の一部があると考えて見ました。つまり、菊池家の家督争いにも、菊池家の歴史の真実があると考えています。
菊池家の相続争い
(訴訟ざた、一)
菊池武重の父、武時は、武房の子隆盛の二男(武房の孫)として生まれました。隆盛は、父の武房より早世したため、隆盛の嫡子時隆が祖父武房の養子となり家督を継ぎました。武房の没後、本家相続に関して惣領時隆と叔父六郎武本及び八郎武経が争い、これを鎌倉幕府に訴えましたが、裁判の結果、本家惣領の時隆が勝訴しました。叔父の武本はこれを恨み、鎌倉の諏訪左衛門尉宅で甥の時隆と刺し違え、二人とも没しました。時は、嘉元二年(1304年)、時隆は僅か十七歳であったと言われています。この後、叔父八郎武経も他国に去り、武本の子は逃れて甲斐の国、都留郡に滞在し甲斐姓を名乗りました。その孫重村は延元年中、九州に下向しました。のちの甲斐宗運はその子孫となります。惣領時隆が叔父の六郎武本と刺し違えて没した跡は、時隆の弟、次郎武時が十四歳で家督を相続しました。これまで、菊池家の相続は父親の指名によって決定されましたが、父が早世したためでしょうか? このような家督騒動に発展してしまいました。身内でも相続争いとなりますと、相当に激しい戦いとなるのがこの時代の特徴かもしれません。その結果、特に戦国の時代ですから親子兄弟であっても家督を争った者が、何事もなかったように仲良く、同じ国(肥後)の中に存在することは、ほとんど不可能だったようです。
下記の「菊池家の嫡流と庶流の動静」についても、同様に身内の家督争いのために書かれた文書であり、または訴訟ざたの証拠ですから、何事もなかったように敗れた当事者である武重や武士など嫡流が、肥後に留まることはことはできなかったのでしょう。
また、武士には、放浪癖があり、僧として全国を放浪したと書かれていますが、これは本当に放浪していたのでしょうか?私は、彼に対しても、これほど失礼な歴史的評価はないと思います。肥後の守護大名であった彼が、そのような人物であるはずがありません。これは、彼を歴史的に抹殺するための捏造であったのかもしれません。武士は、次の家督継承者(庶流の豊田武光)に命を狙われているのを恐れて逃亡していたのかもしれません。後に、肥後へ無事に戻れるのを確認してから、彼は肥後に戻ったのでしょう。ところで、我が祖先、武重やその子も同じように、同じ思いで肥後を後にしたのでしょう。嫡流は根絶やしにされる恐れがあったのだろうと思います。我が家に残る四畳の間(切腹の間)は、人の手にかかって死ぬより、自ら死ぬという強い覚悟を表すものと考えています。家督を奪われたものが同じ国内にいることはできなかったし、同じ国内にいることは、次期惣領が許さなかったと考えるのが妥当である考えています。

菊池家嫡流と庶流の動静と文書
(嫡流から庶流へと惣領権が移行する前後の古文書から、両者の行動を分析)

延元三年三月二十七日(1338年)
武重寄進状
大智禅師のために寺(鳳儀山聖護寺)の敷地を寄進すると言うもの。
(武重は曹洞宗に帰依しながら一族もこれに従わせ、大智禅師を精神的なよりどころとして、一族の精神改革、意識改革を試みたのでしょう。)

延元三年七月二十五日(1338年)
寄合衆内談の事(武重)
武重が制定し、菊池家憲とも呼ばれる。菊池一族の政治組織(民主的?合議制)としての概念と組織強化。
(当時は、「下剋上が当たり前」で、この家憲はその時代の世相を写していると同時に、その対策として制定されたと考えられます。つまり、家臣団の団結と惣領基盤安定化の目的を持って創られたのでしょう。しかし、武重の想定した結果は、得られなかったようです。この時代、武力や策略の方が、民主的な合議制よりも優っていたのです。武重の想いは、現代社会では、理解される考え方だと思いますが、古い封建的な意識と「我こそは。」と言う下剋上の混沌とした間(はざま)に浸透することはなかったのでしょう。武重は、自分の制定した家憲により失脚したのでしょう。その後、この年の暮れ頃には武重の動静はなく消息不明となりました。)

興国三年八月七日(1342年)
乙阿迦丸起請文
「武重武士の家を継ぐの間、文武二道に於いて、仰いで正直の天命を守り、、、、。」と、惣領としての決意を誓う起請文となっています。
(この起請文が存在していることから、乙阿迦丸が嫡流であったことは間違いないでしょう。しかし、彼が武時の子であったのか?武重の子であったのか?は不明ですが、、、。武士の後任として、内々に、武士の指名により次期惣領としてお墨付きを得たが、まだ、一族及び内談衆の信任を得るまでには至っていない、と言う状況下でこの起請文は書かれたのでしょう)

興国三年八月十日(1342年)
武士起請文
国務の政道に関して寄合衆の議を尊重すると共に惣領武士の態度を明らかにし、内談衆の権限の調整をすると言うもの。
(三日前の乙阿迦丸起請文がありながら、三日後に武士がこの起請文が書いたということは、いったい、どういうことなのか?不思議ですが、この起請文からは、武士の態度が弱気になりつつはあるが、まだ惣領としての気概を感じることもできるのです。つまり、この時点では、内々の事なので決定はしていても、乙阿迦丸に惣領を譲ることは公言していなかったのでしょう。つまり、次期惣領の件については、まだ外部に漏れていない段階ですから、武士は、「惣領としての権限を振るうのではなく、あくまでも寄合衆の意見を尊重する。」と言う、低姿勢作戦で難局を乗り切ろうと考えたのでしょう。)

(興国三年)十月二日?(1342年?年号不明)
武士起請文
武士が跡を養子として乙阿迦に譲りて候へども
発願をも破りいかようなる事も候わん時は 兄にて候 与一殿、、もし与一殿も発願を破り、、当家の器用に候ずば、僧(大智禅師)のお計らいとして、、、どの兄弟一族の間に器量と候わんものにあて賜りべく候(但し、この書状には年号が入っていないので、乙阿迦丸に譲った後で書いたものと考えていますが、興国五年正月の「武士起請文」が存在しているので、この時は内談衆の承認も無く、惣領を乙阿迦丸に継承させることはできなかったのでしょう。この起請文が公なこととして、成立しなかったと考えるのが妥当かもしれない。)

興国五年正月十一日(1344年)
武士起請文
武士天性愚昧として、君の為、家の為、家督を兄弟一族中に於いて、朝に仕えて器用の仁たるべきを選び惣領を譲ると言うもの。
(惣領権の選任を大智禅師及び内談衆に委任して、肥後を後にしたのかもしれない。)

興国五年正月(1344年)頃から
菊池家に関する文書等から
武士や武茂の動静が消えている。
(これも、前述のような理由からであろうと考えられる。)
相続争い
(訴訟ざた、二)
乙阿迦丸起請文から武士起請文に至るまで、武士は次期惣領について、内談衆の意見の集約を試みたのでしょう。しかし、武士の思い通りに菊池家の次期惣領が決定することもなく、武士や武茂は肥後を後にしたのかもしれません。(興国五年から彼らの動静が消えているので、、)その後、惣領の空白は、訴訟と言う形で惣領家と庶流派の武光が家督相続を争ったのだろうと推測しています。下のような、武光書状が残っていますので、この家督相続は、決して円満な家督相続ではなく、命を賭けた戦いであったのだろうと思います。惣領家や縁者が肥後を逃げるように離れた理由かもしれません。もちろん、我が家は嫡流家子孫ですから、常陸の国に逃亡して隠棲したのでしょう。我が家の四畳の間(切腹の間)は、命を賭けた逃亡の証と考えることができるでしょう。

正平元年七月五日(1346年)
武光書状(阿蘇惟澄に宛て)
(お互いに庶子でありながら嫡流家の惣領権を狙って訴訟中であると言う書状)
この書状は、武光が庶子であるため、惣領就任を一族から認められず、訴訟を起こした時の証拠である。つまり、これは豊田武光が訴訟で菊池家家督を奪ったと言う証明でもある。
武重は、菊池家憲(ないだんしゅのこと)で菊池の郡での訴えごと(訴訟)を固く禁制しているが、豊田武光は、この菊池家憲にも背いた。しかも改名して菊池を名乗り嫡流家の家紋を用い、あたかも円満に相続して嫡流家が代を継いだように演出までしている。
(書状)
「御分(惟澄)の訴訟、かひがひしからず候えども、わが身は、唯同じ所望にて候間、一には身がこと、申し立て候はんにつき候ても、御分がやうにして御わたり候上は、、、、ゆめゆめあるまじく候。」

と、阿蘇家文書に記されているので、この時、武光はまだ惣領ではなかったようである。
(つまり、興国五年正月(1344年)頃から武士のあとの惣領権は、確定せず、嫡流の乙阿迦丸与一殿などとの訴訟中であり、菊池家の惣領は、宙に浮いた状態であったと考えられる。この訴訟が嫡流派と庶流派の最後の争いでもあったのだろう。正平元年七月五日(1346年)のこの書状があるので、この時はまだ訴訟中であったと思われるが、この後、武光が惣領になると嫡流派が肥後から消えている。嫡流派は没したのではなく、肥後を後にして新天地に向かったものと推測している。この家督争いに限らず、菊池の姓が全国に四散したのは、このようなことが理由であったのかも知れません。)

(下の写真、山また山の逃亡先は、このような処かもしれません、、、、、。)


正平三年正月二日(1348年)
懐良親王宇土港に、ご到着。
懐良親王のご到着に先立ち、恩賞の綸旨があり、この日までに、武光は菊池家の惣領権を確立できたと見るのが妥当。これは、あくまで庶流家に菊池家の家督が移ったのであり、豊田家が菊池嫡流となったと言うのではありません。訴訟によって、豊田武光が嫡流家の家督を奪い菊池武光と改名したということになります。これでは、嫡流は肥後に生存の道はありませんから、他国への逃亡を余儀なくされたものと思います。そして、その結果として、南北朝期頃から東国に菊池姓が存在するようになったのです。しかし、すべての菊池姓が同一の血脈と言うことにはなりませんから、嫡流菊池家及び縁者が核となり、有縁、無縁の菊池姓が次第に増加したと言うことでしょう。

正平三年正月二十日(1348年)頃
懐良親王、菊池に、ご到着。
懐良親王が、豊田武光率いる庶流の庶流菊池家によって、親王は初めて菊池の郡にお入りなされた。

これらの資料は、庶流の惣領権が確立した後に、嫡流とその縁者が排斥され、やむなく東国に活路を求めたのか?それ以前に、族滅を恐れ東国に逃れたのか?また、現在、菊池家とその縁者がなぜ東国に多く存在しているのか?等々、多くの疑問を解明する時、
その、理由やその証明になる資料であると考えています。
皆様は、これをどのようにお考えでしょうか?


菊池家庶流(豊田流)の惣領制を確立
嫡流家は、十四代武士から幻の十五代乙阿迦丸へと家督を継いだが、豊田武光は庶流及びこれらの家臣団と共に、乙阿迦丸の惣領擁立に反対し、長期に亘る訴訟の結果、庶流の武光が勝訴して十五代の惣領となった。武光の後は、強力な庶流豊田流としての惣領姓を確立し、庶流の家督相続は二十三代の能運まで続いたが、能運は高瀬の戦で受けた傷が好転せず、肥前の守重安の嫡男政隆に家督相続するとの遺言を残し、永正元年(1504年2月十五日)に二十三歳で没した。
これで「庶流武光流は、断絶。

武力による家督相続
その後は、訴訟などの手続きを経ず、直接の武力対決で家督を奪い合うようになりました。
菊池家と言っても、まさに名ばかりのものとなり、肥後菊池家は、この数代後に滅しました。

家督は豊田家の庶流(為安流)に移る
この後、遺言により肥前守重安の子で僅か十四歳の嫡男政隆を二十四代の惣領とした。しかし、豊後の大友氏は阿蘇惟長を扇動して、菊池一族を自分の支配下に入れようと画策、これに乗った阿蘇惟長は菊池家臣をたちを巧みに取り込み政隆を排除した。守護の座を追われた政隆は、協力者を集め復興の機会を待った。しかし、阿蘇家はこの様子を知って、大友氏と共に政隆討伐を永正六年八月(1509年8月)に決行。激戦の末、大友軍の勝利で政隆は捕えられ、阿蘇家の本拠矢部に送られこととなった。八月十六日の夜、合志郡久米原の間道を捕えられた政隆らが護送されて来た時、菊池家の旧臣玉屋三郎貞親らが、手勢二百を率いて護送を急襲して政隆らを奪還した。政隆らは、久米の安国寺に入ったが、これを知った隅府城の阿蘇惟長(菊池武経)は、五百の兵で久米原に駆けつけ政隆の陣を攻撃、政隆らは敗北、政隆は安国寺に入って多くの家臣とともに自害した。政隆はこの時十九歳でした
僅か一代で「豊田家庶流も断絶」

豊田庶流から他家(阿蘇家)へ
「阿蘇大宮司阿蘇惟長豊田政隆から家督を奪い、菊池武経を名乗る」
二十五代、阿蘇惟長は、大友氏の協力で菊池家に入り込んだが、生来凶暴でおごり高ぶり、家臣の言うことも効かず、国政をないがしろにしたため、菊池家老臣達も憤慨して険悪な空気が城内に立ち込めた、これを察知した武経は不安を感じ、永正八年(1511年)隅府城を出て阿蘇の矢部に帰り、旧名阿蘇惟長に改めた。惟長は弟惟豊に譲っていた阿蘇大宮司職を自分に取り戻すことを考え、阿蘇家臣もこれに同調するものがあった。これを知った惟豊は兵を出して惟長を急襲した。惟長は、急なことで防ぎきれず島津氏を頼って薩摩に逃れた。その後、惟長は兵を集めて永正十年(1513年)三月、子惟前と共に矢部の惟豊を襲った。惟豊は防戦もかなわず、日向国鞍岡にのがれた。矢部の阿蘇惟豊の館を奪った惟長は、ここに居を構え、その子惟前を阿蘇大宮司の職に就かせました。鞍岡に逃れた惟豊は、鞍岡の郷士甲斐大和守親宣の援助で兵を集め、永正十四年(1517年)阿蘇に進撃した。惟長惟前親子は、矢部を追い出されて再び薩摩に逃亡した。惟豊は再び矢部の館に入り、惟長に従った家臣たちを殺害、甲斐親宣の功績に感謝して上位の家老職として取りたてた。一方薩摩に逃亡した惟長親子は相良氏を頼って八代に行き河田に身を置いた。大永三年(1523年)堅志田城に移り、領地を得て堅志田大宮司と称した。惟長は天文六年(1537年)この地で五十八歳の生涯を閉じ、その後は惟前が継いだ。

他家から庶流家へ
「阿蘇惟長逃亡の後、詫磨武包(菊池支流家)が継ぐ」
永正八年、阿蘇惟長が逃亡した後は、隅府城に於いて菊池家重臣の相談の結果、菊池家支流の詫磨武安の子武包を惣領として迎えました。二十六代菊池家惣領となった詫磨武包は、菊池系としては、最後の肥後守護となりました。

庶流家から他家へ
「大友重治隅府城に乗り込む」
詫磨武包が隅府城に入ったころ、大友氏は豊前豊後で勢力を拡大して、筑後及び肥後玉名地方をも勢力下に入れていました。菊池家の勢力は、まことに衰退していた時ですから、大友氏は好機到来を見逃すことなく菊池家の元老や重臣に圧力を加えました。永正十五年(1518年)大友義長が没すると、跡を継いだ嫡子義鑑の勢力は益々強大なものになり、その弟重治は、
永正十五年、菊池家の重臣たちをそそのかして、難癖を付け武包を追い出すことに成功した。永正十七年(1520年)二月、大友重治は隅府城に乗り込み二十七代菊池家惣領菊池義宗(のちに義武)を名乗った。菊池家の勢力はさらに衰え、大友、阿蘇が威勢を振るうことになった。
菊池を追われた武包は、わずかの家臣とともに玉名に行き、大永三年(1523年)三月、兵を挙げたが大友、阿蘇の連合軍に攻められ、敗れて島原に逃れ、天文元年(1532年)二月十三日、この地で死去した。

大友重治(菊池義武)の最後
「武家集団としての菊池家滅亡」
隅府城主となった義武は、高慢で粗暴の振る舞いが多く、国政を顧みず、わがままな生活を続け、兄の大友義鑑の意にも従わなかったので、近親は言うに及ばず家臣たちも菊池家を離れて大友氏に好意をよせるようになった。菊池一族の木野対馬守親則は、義武の行状を見るにしのびず、義武にたびたび忠告したが、反対に義武は怒って親則をついに手討ちにしてしまった。多くの家臣たちは、ますます義武をないがしろにして離れるようになった。天文三年(1534年)義武は、身の危険を感じて隅府に逃れ、八代に行き相良氏を頼って形勢を見ることにした。
天文十九年(1550年)八月、隅本城主鹿子木鑑員は、菊池家の老臣田島氏らと図って、八代に逃れていた菊池義武を隅本城に迎え、菊池家の復興を企てて兵を挙げた。ちょうどこの年二月、豊後の大友義鑑が臣下の津久見美作守に殺され、嫡子義鎮がそのあとを継いだ。義鎮は大軍を率いて隅本城を攻め、義武はまたもや敗れ、金峰山に逃れ田尻駿河守のもとに身を寄せた。しかし、大友氏はこれをも攻めたため義武は島原に逃れた。天文二十三年(1554年)義武は、島原を出て島津氏を頼るが上陸を拒まれたため、今度は相良氏を頼って人吉原田に行き、永国寺に入り落髪した。大友義鎮は義武が人吉にいるのを知って、相良家に二度三度使者を送って義武を引き渡すように強く迫ったので、十一月十五日、義武はついに覚悟を決めて嫡男高鑑と共に豊後に行き、同月二十四日直入郡城原の山中で捕えられ五十一歳で自刃した。

武家集団の菊池家は、これにて断絶!
「それでは、菊池家の遺伝子は?」
武家集団としての菊池家は、他の家系が菊池家の名を継ぐことで、
本来の家制度からは離れた菊池家となりました。
形だけ、名前だけの菊池家となって滅亡したのです。
しかし、本来の菊池家の遺伝子が全く消滅したわけではありません。
今も、菊池武重の子孫は継続して、常陸の国に存在しているのですから。


初代菊池則隆の父蔵規(政則)の出自
烏帽子親(えぼしおや)と烏帽子子(えぼしご)
「烏帽子親は藤原隆家で、その烏帽子子が藤原蔵規なのかも」?
烏帽子親(えぼしおや)とは、元服(成人)儀式の際に烏帽子子(えぼしご)に加冠(烏帽子を被せる)を行う者のことで、平安時代に始まったそうです。男子が成人になり元服を行う際に、特定の人物に依頼して仮親に為って貰い、頭に烏帽子を被せてもらうことが通例でした。この仮親を烏帽子親、烏帽子を被せられた者を烏帽子子と呼びました。また、この時に童名を廃して、烏帽子親が新たな諱を命名する場合があったその諱を烏帽子名(えぼしな)と言いました。烏帽子親は主君や一門の棟梁、信頼の置ける地域の有力者などに委嘱する例が多く、烏帽子親と烏帽子子は実際の血縁関係が無くても、これに准じるものとされていました。烏帽子親は、平安時代から広く行われた慣習で、武家社会だけでなく貴族の間でも「引入(ひきいれ)」と呼ばれる烏帽子親に当たる存在がありましたし、室町中期以降は庶民の間にも普及していったと言われます。 烏帽子親・烏帽子子の関係が、主従間であれば、その絆がより強固なものとなり、異なる武士団の間であれば一種の同盟関係を結んだような効果もありました。烏帽子親は、一族とは別なところから選ばれるというのはそのような理由があるからで、また有力者に烏帽子親になってもらうことは将来の出世にも有利という面もあり、有力者の同族と言う「箔がつく」一面もあったのだと思います。
古来の人々は、この烏帽子親の制度をうまく利用して、みずからの道を開くことができたのだろうと思います。藤原隆家の子孫に藤原蔵規と言う人物は存在しない事から、
蔵規は、有力者藤原隆家の烏帽子子として、仮の親子関係を結び藤原姓を名乗ったと考えられます。
本来は、鞠智の豪族末裔でありながら、藤原氏一族の子孫として藤原姓を名乗ることの優位性をうまく利用したのだろうと思います。
ちなみに、初代の菊池則隆という名は、政則の「則」隆家の「隆」から命名されたのだろうと思います。
それでは、なぜ?藤原氏を名乗ることになったのでしょうか? 
西暦698年には、朝廷によって荒れ果てていた鞠智城が修復されていますので、それ以前にすでに鞠智城は熊蘇の居城として破壊され廃城となっていたと考えられます。政則が狗奴国の官狗古智卑狗の子孫であれば、政則は熊蘇の子孫と言うことになります。400年以上の時が過ぎても、熊蘇子孫の鞠智氏を名乗るよりは、藤原氏を名乗る方が世間体が良かったのかもしれません。政則は藤原隆家の郎党として大活躍をしましたから、恩賞として烏帽子子(えぼしご)として烏帽子名を授けられた可能性は否定できません。また、鞠智城と鞠智家の関連は、他項でも書きましたが、鞠智城の軒丸瓦が菊池家の日足紋に酷似している点、鞠智が地名であり字が変化して菊池に変じたことも知られています。従って、古来の鞠智家は熊蘇であり、その時は鞠智城主でもあったのでしょう。しかし、政則は本来の熊蘇子孫の鞠智ではなく、当時の最高権力者一族である藤原氏を、どうしても名乗りたかったので改名したのかも知れません。

菊池姓の起源について
(8/27、キクチの読み方の変遷を訂正)
「狗古智卑狗」
今回は、菊池姓について考えてみました。菊池と言う名称は、いつのころから用いられていたのか?素朴に疑問を持ちましたので、さっそく調べると、古代中国の史書「魏志倭人伝」の記述に、正始(魏の斉王芳の年号)元年(西暦240年)から正始八年(西暦247年)頃の事ですが、「倭国女王卑弥呼の邪馬台国尽きるところの、その南に、狗奴国(くなこく)があり、その官(将軍)は狗古智卑狗と言う。狗奴国は、邪馬台国と戦闘状態にあり女王国に属していない。」などと、書いてあります。この狗古智卑狗の音読みはクコチヒクとなりますが、本来は鞠智日子(キクチヒコ)で、編者の耳には、このように聞こえたので書いたのか?この音を的確に表現する文字がなかったのか?jあるいは、この時代に、このような読み方をしていたのか?判断の困難なところですが、これは、客観的に見て編者の書き間違えだろうと思いました、しかし、調べていくうちに、クコチ=>ククチ=>キクチ
へ変化していったものだと言うことが分かりました。
菊は、古くはクコそしてククキクへと読み方が変化したそうですから、菊池は、クコチ=>ククチ=>キクへと読み方が変化したのだと言うことが良く分かりました。
これと同じで、狗奴国(くなこく)というのも、前述のように熊国(くまこく)の古い読み方だろうと推測しています、熊国(熊本)には、鞠智(菊池)が地名として古くから存在しています。従って、魏志倭人伝の現在の正確な記述は、「熊国の官は、菊池日子である」となります。ちなみに、古くは鞠の字を用いていたそうで、現在我々の使っている菊と言う文字は、新しい文字ですから「鞠と菊」は同じで狗古智卑狗は鞠智(菊池)日子と言うことになります。

「鞠智城」
大和朝廷は、西暦698年「続日本紀」文武天皇二年(698年)に大野城・基肄城・鞠智城を太宰府に命じて修復を させたという記述があります。白村江の戦い(663年)の後、国外の脅威を感じた大和政権 は外国の侵略に備え、鞠智城を修復ではなく、同じ場所に新しく築いたのだと思います。廃城になっていた鞠智は、白村江の戦いで国を追われた亡命百済人が携わって朝鮮式山城を築いたとされています。これは、我が国初の朝鮮式山城であったようですが、以前の鞠智城は、倭式での築城であったものと思われます。以前の倭式の鞠智城は、熊蘇征伐により、熊蘇の居城として破壊され尽くしていましたので、修復ではなく、新しく城を築いたのでしょう。
私は、そのはるか以前に、鞠智城は狗奴国王か肥国王によって築城されていたのだろうと考えています。
前述と同じで鞠智は、菊池になります。

「菊池則隆、菊池家」
菊池家初代菊池則隆が、延久二年(西暦1070年)肥後菊池に居を構え菊池姓を名乗ったとされています。則隆は、居城の前に菊の池があったので菊池を名乗ったと言われていますが、鞠智の名称は、古くから人や城の名称や地名として歴史に登場していたのです。父の代は、訳あって藤原氏を自称していましたが、初代の則隆が、初めて菊池姓を名乗ったのではなく、本来は、鞠智(きくち)の姓であったのだと思います。則隆は、菊池と文字を変えて、その理由には「菊の池があったから。」と言い訳をして、菊池に復したのだろうと思います。このような策をめぐらせて菊池姓に復するには、乗り越えなければならない何かの壁があったのだろうと推測するのですが、、、。たとえば、熊蘇子孫としての世間の風圧を感じていたのかも知れません。

「現在の菊池姓」
これらの事から考えても、菊池の姓は古くから続いている姓であろうと思います。ただし、菊池姓を名乗るすべての人が同族であるとは考えられません。しかし、古くからの菊池の血脈をを受け継ぎ菊池姓を名乗る者も皆無というわけではないと思います。初代の則隆が狗古智日子や鞠智城、熊蘇の歴史をどれほど深く知っていたのか?分かりませんが、鞠智の姓を受け継いでいると言う自負があり、その子孫であるがゆえに、菊池姓を名乗ろうと考えたのだと思います。
皆様は、これをどのようにお考えでしょうか? 

家系について考えたこと
家系とは、本来、「祖先の遺伝子を有する子孫が家を継ぐ」こと、となっています。しかし、そのためには、男系か女系を継承することが必要となります。男系由来のY染色体(睾丸の形成に関する遺伝子)を保つには男系でなければならず、女系であればミトコンドリアDNA(肥満の個体差に関する遺伝子)ですが、やはり女系の継続が欠かせません。また、男系女系ともに遺伝子の突然変異も有りますから、この場合には、男系女系ともに正確な遺伝子は伝わりません。それでは、遺伝子が伝わらなければ子孫がなくなってしまうのでしょうか?いいえ、そのようなことは決してありません。子孫は、それらの遺伝子が変わっただけで、そのまま存在しています。これは、自然界では当たり前のことです。我々は、家系と言う優越性を誇示するために、代々、このような変な慣習を人為的に続けているのです。人間の世界は、洋の東西を問わず、何とも心もとない家系と言う、睾丸の形成や肥満の型を決する遺伝子に振り回されているわけです。それでは、なぜそのような、つまらないものに振り回さているのかと言えば、答えは一つ、「人間の欲望」です。自分は、他人より身分の高い祖先を持つ人間(子孫)でありたいと願う、上昇志向があるからではないでしょうか。古代から、王や皇帝でさえ神や文明創始者の子孫を称する例が多くあります。現代社会においても、一般の人々が、有名な王侯貴族や武家に祖先を求める例も多くあります。いつの世にも、ルーツを探しが絶えない理由には、このような深層心理が大きく働いているからなのかもしれません。そのためには、より良いルーツを求める傾向があります。たとえば、石川五右衛門の子孫では困るので、そのような方がいれば別の祖先を求めて自称することがあるかもしれません。わが菊池家も、藤原氏を自称したようですから、一時的にせよ、何かそのように、せざるをえないような問題があったのでしょうか? 
ところで、私は生物学で言う遺伝的な側面で考えれば、祖先と同じ遺伝子を伝えることは、全く無意味なことだと考えています。何千年も同じ遺伝子を保つより、新しい遺伝子を得て進化をする方が、生物学的に見て有利です。生物の進化とは、時代に適応した遺伝子に組み換え、より良く適応できるように変化をすることです。これには、生存や繁栄の力が活性化する利点もあります。我が家はそういう意味では、男系と女系を繰り返して継続していますので、生物学的には理想的な家系だろうと自負するところです。男系では男性由来(Y染色体、男系)の睾丸形成のための遺伝子、女系では女性由来(ミトコンドリアDNA、女系)の肥満の型を決定する遺伝子がありますが、それが変わらないことでなにか良いことでもあるのでしょうか? 家系をたどれば、男系でも、女系でも、子孫であることに変わりはありません。祖先にたどり着くことができれば、家系を継ぐことになるのではないかと思います。私は、本来の家系を継ぐと言う、前述のような祖先由来の遺伝子を、長い間継続しても無意味だと思います。遺伝子を使って家系調査をするときは役に立つと思いますが、その程度の役にしかたちません。ですから男系、女系にこだわらないでも家系を継ぐことは可能です。要は、家系をさかのぼり、祖先にたどり着くことができればそれで良いのです。私は男系女系の混合が、家系を活性化させる為にも良い方法と思いますが、皆様はどのようにお考えでしょうか? 
しかし、どのように考えても、嫡流や庶流の違いはある思いますが、、、。

「嫡流と庶流」について
最近、あることで(メールで米良一族の子孫が、菊池嫡流であるとのご意見を頂きましたので)、
嫡流家と庶流家の違いを考えることがありました。確かに、米良氏は、徳川幕府に菊池嫡流として認められました。しかし、それは地位のある米良氏が幕府への申告によって、幕府に認知されただけであり、
一般的な嫡流や庶流の意味する考えからは、決して容認できるものではありません。米良氏は、なぜ、菊池嫡流であることを、幕府に認定して貰う必要があったのでしょうか? それは、「菊池家の子孫であるとのお墨付きが無ければ、、、」との想いが強くあったものと推測されます。その理由として、米良氏は菊池嫡流の存在を知っていたからなのではないのでしょうか? また、あるいは、出自に自信が持てなかったのかも知れません。すでにご存じの方が多いと思われますが、米良氏は菊池家庶流豊田武光の子孫を名乗り、明治になって男爵の位を授かりました。豊田武光は菊池嫡流家を廃して菊池武光と名乗りましたので、菊池の姓ではありますが庶流家の一人にすぎません。これは、菊池家の頭領が庶流家の者になったと言うことです。米良氏の来歴の真贋を確かめるすべはありませんが、米良氏が本当に菊池武光の子孫であったとしても、そのような意味で、米良氏は菊池嫡流家の子孫ではありません。あるいは、米良氏が、このようなことを知っていたので、お墨付きが必要になったのかもしれません。これは、私の想像ですから、米良氏にどのような想いがあったのか知るよしもありませんが、、、、。通常であれば、嫡流家の子孫は、最初から菊池姓ですから改名する必要はないのです。一般的には、嫡流家はいつまでたっても嫡流であり、庶流家はいつまでたっても庶流なのだと思います。庶流が嫡流家を廃して嫡流家の姓を名乗ったとしたら、それで庶流家は嫡流家になるのでしょうか?もしも、庶流家が嫡流家にもなるのであれば、嫡流も庶流も全く違いがなく(同じで)、言葉だけの役職名のようで、その言葉の存在や意味を成さなくなってしまいます。わが菊池家は、初代より菊池姓以外の姓を名乗ったことは一度もありません。菊池の血を継ぐ本家(嫡流)の人間であれば、菊池姓を名乗るのが当たり前です。どのような事情があろうとも、身分を偽る必要はないのです。逆に、本姓を隠しては祖先を侮辱することになりますので、決してそのようなことをするはずがありません。我が家は、菊池則隆以来、菊池姓を貫いてきました。家には切腹の間をおいて、最後の覚悟はしていたのですが、、、お蔭さまでこれを使わずに済みました。現在も四畳の間が残っていますので、祖先の想いは伝わります。そのほかにも、祖先は時を超えて、嫡流である所以の数々を、私達子孫に伝えようとしています。それは、家紋や家訓、家例、伝承、伝統行事、氏神、お祭り、遺物の中に見ることができます。嫡流家であれば、嫡流ならではの多くの符合する所以が残っているのです。
ですから、お墨付きと言うものは全く必要ないのです。嫡流を主張するのであれば、にわかづくりではない本物の嫡流の所以を見せて欲しいものです。私はこの「嫡流や庶流」と言う言葉は、血縁関係の違いを表す言葉であり、その姓を名乗った初代の家で生まれ、家を継ぐべきもの(惣領)が嫡流であり、側室の子や嫡流家を出たものを庶流だと思っています。しかし、それでも惣領の都合で嫡流家の者が、家を継ぐことなどは許されたのだろうと思いますが、嫡流の者がいるのに庶流の者が、嫡流を廃して無理に跡を継げば、これは下剋上であり、決して容認されるものではありません。しかし、戦国の時代は、親子兄弟が命を賭けて争う下剋上の世でしたから、祖先たちには、大変なご苦労があったのだろうと推測しています。
皆様は、これをどのようにお考えでしょうか?

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「歴史の真実とは、、」
書物(古文書や系図)や伝承だけで、真の歴史を解明することは困難です。
多くはそれらを書いた人に、都合良く書いたものが文書として残る訳ですから、
その内容の信ぴょう性には、疑問が残る事も少なくありません。
しかし、すべて古文書が史実と大きくかけ離れているわけでもなく、
その中には、正しい歴史が記録されている文書も残っていますし、
また、部分的に脚色を加えたような文書もあります。
地域の風俗や天候、経済状態などの、客観的な記録であれば、
脚色する必要もありませんから、比較的正確な記録と考えて良いような気がします。
しかし、自分の家系や由緒については、主観が入りますから自分に都合よく書き残し、
伝えることもあったのだと思います。
菊池家は、菊池則隆の父藤原蔵規が藤原隆家の子孫であると自称して、
藤原の姓を名乗りました。
従って、我が家にも、「藤原氏の子孫である。」と伝わり、現在まで伝承されています。
しかし、私は、この伝承を確認したい欲求と好奇心で、菊池家の歴史の詳細を調べたところ下のようになりました。

一、藤原氏の家系図から検証
(藤原蔵規を藤原隆家の子や孫とするには、年代的に大きな無理がある)
二、家紋の検証
(両家の家紋に関連性がなく、日足紋が鞠智城跡から出土した布目瓦の文様と酷似している
三、歴史的背景
(藤原蔵規は、藤原隆家の第一の郎党とされ、藤原隆家の眼病の薬を朝鮮から調達している)
四、源氏物語
(藤原蔵規らしき登場人物は、肥後の住人となっている)
五、祖先を祀る氏神様とその本地仏
(わが菊池家の氏神様十二所や熊野神社の第一の神様熊野牟須美大神・事解之男神の本地仏は、
千手観音である)
六、菊池家の氏寺輪足山東福寺や菊池家の仏壇の本尊
(肥後の輪足山東福寺には、木彫りの千手観音が古くからあり、わが菊池家の仏壇にも鎌倉期の特徴を持つ小さな鋳鉄製の千手観音像がある。)
七、初代則隆が菊池姓を名乗ったこと
(初代則隆は、在地の豪族鞠智氏末裔の子孫であったので、本来の姓に戻したのであり、藤原姓が本来の姓であれば、菊池姓を名乗らずに、そのまま藤原姓を名乗り続けたと考えられる。)
結論
これらのことから、藤原蔵規は藤原姓を自称して、一族のために都合よく使い、子の初代菊池則隆は菊池姓を名乗り鞠智氏の末裔子孫であることを後世に残したかったのだろうと思います。

我が家の氏神様
我が家は、熊野十二所権現を氏神様(祖先神)として尊崇してまいりました。
氏神様は、祖先を神として祀ったので、仏教で言うなら家で一番古い仏様のような存在です。
つまり熊野十二所大権現は、、我が家の一番古い祖先と言えるでしょう。
狗奴国と邪馬台国
狗奴国は、九州の熊野、球磨地域以南に存在し、南九州までの広い国土を有していました。魏志倭人伝の記述では、狗奴国は邪馬台国の隣国にあり、王は卑弥弓呼で、平素より邪馬台国と仲が悪く、邪馬台国と長い間戦闘状態にあったと記されています。西暦224年に邪馬台国の女王卑弥呼が亡くなったと記されていますから、今から約1800年も前のことです。当時の狗奴国王(熊野の大王(おおきみ))卑弥弓呼が、
熊野十二所権現の一番目の神様「熊野牟須美大神・事解之男神」なのかどうか分かりません。
しかし、熊野十二所権現(狗奴国の大王)を祖先の神様としてお祀りしていることは確かです。
千手観音菩薩
それは、熊野十二所大権現の本地仏が千手観音菩薩であり、菊池家のかつての氏寺輪足山東福寺のご本尊「の千手観音菩薩、我が家の仏壇の千手観音菩薩へと歴史が続いているからです。
狗奴国の官 狗古智日子
狗奴国の官(将軍)は狗古智日子でしたが、これは、鞠智(菊池)の日子であり、現在の熊本県の菊池市に比定することができます。つまり、菊池家発祥の地にまで繋がります。熊野十二所大権現の千手観音菩薩つながりと、球磨や鞠智の地域的関連を考慮すれば、
菊池家が狗古智日子の子孫であることは、事実だろうと考えています。
なぜ、菊池家が熊野の大王の子孫と言えるのか?
それは、狗古智日子(鞠智、菊池日子)が狗奴国の官(将軍)であったと言うことにあります。古代において軍の最高権力者である将軍は、王にとって信頼できる人物でなければなりません。そのため、一族の者で縁の近い者が信頼できる人物であると考えられますので、王の子や兄弟などが軍の最高責任者として、最適であったのだろうと推測できます。従って、狗奴国の官狗古智日子は、狗奴国王卑弥弓呼の子か兄弟だろうとと思います。
邪馬台国は九州に存在した
卑弥呼の一族の宗女の台与(豊=とよ)が女王になりましたが、邪馬台国の近くには豊国(台与の国=豊の国)や邪馬渓、山国川(やまのくにかわ=邪馬の国の川)も存在します。
これらの事から九州に邪馬台国が存在したと考えています。
狗奴国と邪馬台国のその後
卑弥呼亡き後、一族の宗女台与(豊=とよ)が擁立され、狗奴国と邪馬台国の戦争も終結したようです。そのあと両者が融合したのか、並立していたのかは不明ですが、一時的には友好関係を保つことができたとも考えられます。それからの歴史は、中国の史書にも倭国や邪馬台国の記述はなく、空白の時が流れますが、熊野垂迹縁起によると、熊野の神様は、中国の天台山から九州の英彦山に天降り、四国の石鎚山、淡路島を経て紀伊熊野にお移りになられた、と書いてありますので、熊野(狗奴国)の勢力が東旋したことを表すものと考えています。
倭国が統一される
その後、倭国統一となり近畿地方に政治の中心は移り、朝廷中心の政治が行われたのだろうと思います。東旋した九州の熊野の大王(おおきみ)の子孫は、この政治に参加したのかどうか確かではありません。しかし、熊野十二所大権現の氏神様に第四殿(若宮):天照大神(十一面観音)とありますので、 朝廷と狗奴国と関係があったのか?または、何らかの理由で、神様を後から加えたのか?入れ替えたのか?全く想像もできません。
菊池家は、(球磨祖/熊祖)くまその子孫
九州に残った狗奴国の子孫は、くまそ(熊祖/球磨祖)とよばれたのだと思います。
その九州に残った狗奴国の子孫、くまそが菊池家の祖先であったのかもしれません。
次第に、くまそは朝廷に従わなくなったのか、くまそが朝廷にとって邪魔になったのか、知る由もありませんが、くまそ征伐を受けたり、しばらくの間、朝廷からは差別を受けるようになりました。鞠智城は古代の山城で朝廷が築いたとされていますが、元々、鞠智城はその名の通り鞠智一族(くまそ)の居城であったのだろうと考えています。朝廷はくまそ征伐を進め、鞠智城もその戦闘の過程で破壊されたのだろうと思います。くまその征伐が終わり、その後、朝鮮に出兵した朝廷は、西暦663年の白村江の戦いで大敗北をしました。そのため、今度は国外からの侵略を警戒しなければなりません。侵略に備えるため、西暦698年、大宰府に命じて、廃城になっていた鞠智城の修復をさせました。この修復には、白村江の戦いで国を追われた亡命百済人が携わったようで、我が国初の朝鮮式山城が建設されたのだと思います。
以前の鞠智城は、倭式の築城であったものと思われますが、くまその城として破壊されつくしていましたので、
修復と言うより新しく城を築いたのだと思います。
最近、鞠智城の発掘調査で百済由来の千手観音が発掘されましたが、菊池家の氏神様熊野十二所権現の本地仏でもあり、鞠智城は、菊池家に関連のある城の一つであろうとの考えを強く致しました。
初代則隆の父は、なぜ、藤原の姓を自称したのか?
その後、くまその子孫は、朝廷に従い大宰府武官の職を得たのだろうと思います。菊池家の祖先菊池則隆の父である蔵規(まさのり)も、大宰府権師、藤原隆家の郎党として働き、藤原隆家の子と称して、藤原姓を自称しました。その理由として考えられるのは、蔵規にとって前述のくまその子孫の菊池姓のままでは、中央から赴任した武官仲間のとおりが悪い(かっこ悪い)ので、当時、中央政府内で一番勢力のあった藤原姓を、隆家の許可のもとで自称したのだろうと考えることができます。その後、次第にくまそに対する差別意識も薄まりましたので、蔵規の子則隆は、元の菊池姓に復すことができました。こうして、初代則隆が菊池の姓を残しましたので、現在、その菊池家の歴史をたどり、狗奴国や邪馬台国の歴史まで想像することができるのです。
祖先の神様、熊野十二所権現に感謝したいと思います。

歴史の整合性を得る努力をしていますが、至らない点がございます。
ご指摘を頂ければ、大変うれしく存じます。
メール菊池武肇

菊池家の家紋について
最初の家紋「日足紋」は、日の国の太陽を表したいわゆる旭日旗のような家紋です。その後、阿蘇神社の氏子であった6代隆直の時に、阿蘇神社より神紋の「違い鷹の羽」を下賜され、阿蘇家と菊池家を区別するために丸をつけて「丸に違い鷹の羽」の紋を用いたものと考えています。ネットや文献には、阿蘇神社の神紋を「並び鷹の羽」とし、その神紋が菊池家に下賜されたとしているものも多くあり、「並び鷹の羽」代々の菊池家の家紋であるとされています。しかし、菊池を冠する家の多くは現在も「丸に違い鷹の羽」を用いている家の方が圧倒的に多く「並び鷹の羽」は極少数派です。また、阿蘇神社の神紋は、今も南北朝期の阿蘇家の祖先の甲冑にも残り「違い鷹の羽」であることに間違いありません。「並び鷹の羽」は、十五代豊田武光が後醍醐天皇から下賜されて用いたとされていますが、竹崎季長の蒙古襲来絵詞には、「並び鷹の羽」のような旗印が描かれているので、これを根拠に、菊池家は代々「並び鷹の羽」を家紋にしていたと言うことになっているのかも知れません。しかし、この絵詞の「並び鷹の羽」とされる旗印は、羽の縞模様が三本で、現在の並び鷹の羽紋とは同じでないこと。竹崎季長が絵師に命じて描かせたもので、詳しい指示がどの程度されていたのかも不明であること、また、成立後の意図的な改変や成立時期などの違いはなかったのか、疑問が残ります。すでに、改変をしたところも判明していますので、後年、少しずつ改変されたのは事実です。ゆえに、この絵詞はすべてが信頼できるものでないことを、考慮しなければなりません。菊池家は阿蘇神社の神紋を下賜されたはずなのに、阿蘇神社の神紋「違い鷹の羽」を用いたのではなく、六代隆直の時代から「並び鷹の羽」を用いたとされていることが大きな疑問です。また、蒙古襲来絵詞に描いてあるそれぞれの家紋は、次のコラムにあるように、正確な家紋が描かれているものではないことも判明しています。
そこで、菊池家を出自とする、多くの支族の家紋を、葬儀関連業者(有限会社ひだか様)の葬儀時の家名による家紋データにより、現在、使われている家紋の比較を致しました。
(結果は下記の通りです。)
注意、このデータは、あくまで東京を中心とした近県エリアの情報ですから、多少の偏在はあるかも知れません。しかし、東京は全国から人が集まっていますので、その意味では日本の平均と見ても良いかも知れません。

A.(有限会社ひだか様)の葬儀データによる、菊池家を出自とする支族の現在の「家紋」使用情況
西郷姓(西郷隆盛の祖先)は、「丸に違い鷹の羽」「九曜」
小島姓は、「丸に違い鷹の羽」
藤田姓は、「丸に違い鷹の羽」
村田姓は、「丸に違い鷹の羽」
片角氏は、「丸に違い鷹の羽」
赤星姓は、「丸に違いの羽」、「並び鷹の羽」
永野姓は、「丸に違い鷹の羽」
甲斐姓は、「丸に違い鷹の羽」
島崎姓は、「丸に違い鷹の羽」
深川姓は、「丸に違い鷹の羽」
「並び鷹の羽」は、赤星姓の一部で使用されていますが、「丸に違い鷹の羽」が圧倒的です。
このことから、「並び鷹の羽」は、菊池武光以降の家系に用いられ、それより古い家系には「丸に違い鷹の羽」が用いられていたことが考えられます。
*(データのない支族もございますので、その点、ご了承ください)

鞠智城修復時の布目瓦と日足紋の類似性
         
菊池市史に掲載の軒丸瓦     菊池家の日足紋
菊池市史(上巻)によると、布目瓦が発見されたのは、昭和54年10月、11月、の発掘調査で地表下130cmから、素葉八葉の軒丸瓦(軒先に葺く瓦で、装飾模様が施されている)の破片が出土したそうです。この瓦は、文武2年(698年)の鞠智城修復の時に製作された可能性があると書かれています。しかし、それより以前にも鞠智城は存在していたので、修復時以前の瓦かもしれません。この瓦は菊池家の日足紋に類似性のある模様ですから、菊池家が鞠智城に、関連があることを示唆する遺物であろうと考えています。歴史を創作しても、長い間にはメッキがはがれるように、その真実が姿を表します。家系図や文書であっても、捏造によるものや書き換えのものは、後年、必ず見破られます。歴史が真実とかけ離れていれば、人の気持ちとしてその真実を見たいと願うものです。それが、歴史探索のだいご味かもしれません。菊池家も、藤原氏の後裔を説えていましたが、それは誤りでした。しかし、藤原氏の絶大な勢力圏がお家の安泰をもたらし、菊池家の礎になったと考えれば、この判断は、良かったと評価をしています。(藤原隆家も、藤原氏を名乗ることを認めていたわけですから)

白馬を飼っていた時、大火に会う
わが家の伝承に、大昔、白い馬のいたときに大火に会ったとあります。これは、何時の頃のことなのか、定かではありませんが、それ以来、我が家では白い生き物を忌み嫌い、「白い生き物(動物や植物)を置くべからず」とされ、現在までこれを家例として守ってまいりました。私の、推測では、白い色と言えば、「源氏の白旗を忌み嫌っての伝承ではないか?」と、思っています。六代隆直は平家の家人とし働き、源平合戦では一族に多くの犠牲者を出しています。平家が滅んでからは、源氏の家人となりますが、「元平家」と見られて源氏から良い扱いを受けることもなかったようです。源氏の白旗は、菊池家に縁起の良いものではなかったのでしょう。

「菊池家の吉数」

(上の写真は、我が家伝来の遺物に押された「山二」の焼印です。)
わが菊池家の吉数は、と伝承されています。
嫡男には、代々、次郎と名づけたことからも、この吉数は、六代隆直以来の菊池家の想いが込められているのです。しかし、その後、お家騒動によって、嫡男ではないものが家督を相続し次郎に改名することも多くなり、「当主の呼び名には次郎を用いなければならない。」かのような勘違いで「菊池家本来の想いとは関係なく。」用いていたようです。

伝承や家例は、傍流には伝わらない
家督や伝承、家例、伝統行事は、嫡流家にのみ伝わり、分家や庶流家には、円満な家督の継承がなければ絶対に伝わりません。それらは、古くから嫡流家の嫡男が受け継ぐことになっていたからです。戦国時代の下剋上で、分家や庶流家の者が無理に家督を継いだとしても、文書として残っていた伝承や家例は真似ることができます。しかし、それ以外の詳細な伝承、家例、伝統行事、宝物などは不明ですから伝わりません。しかし、嫡流家の継承者は、地方に落ち延びたとしても、それを守り伝える責務を負っていたので、幼少時より惣領としての教育を受け、代々、子孫に伝えることができたのでしょう。「菊池家と千手観音」や「菊池家の出自」について、詳しい伝承と証を持つ家が他にも存在しているのか、また、菊池家に関する、宝物や家例、伝統行事を、代々、受け継いでいる家が他にも、あるのか?ないのか?等々、是非とも、知りたいところです。

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寛仁3年(1019年)3月
刀伊入冠
(といのにゅうこう)
藤原蔵規(政則=初代菊池則隆の父)が活躍


寛仁3年(1019年)3月、刀伊(とい)の船団が対馬・壱岐の両島を襲撃しました。この「刀伊」とは、高麗が北方の蛮族を呼ぶ時の蔑称で、「女真賊」とも呼ばれました。刀伊の船団は、そのあと、4月7日に筑前沿岸に姿を現します。異民族襲来の報を受けた太宰権師・藤原隆家は、大宰府官藤原蔵規(政則)など北九州の武士団を率いて応戦。4月9日には、博多上陸を目指す刀伊軍と、隆家軍は激しい戦闘になりましたが、隆家軍は、ついに刀伊軍の上陸を阻むことに成功。刀伊の入寇は幕を閉じました。日本側は当初、どの国が攻め込んできたのかわからなかったようで、後に高麗から刀伊の侵入であったことを知らされています。この間、朝廷の貴族らは何もなすすべがなく、刀伊が攻めてきた事も、隆家らが勝利した後になつて知り、武功のあった隆家らに恩賞を出しませんでした。しかも、何ら外交的な対策もせず、貴族政治の力量のなさが示された事件となりました。この戦いで刀伊によってで殺害されたのが、365名、捕虜として連れ去られたのが、1289名、牛馬の損害は350頭、人家45戸が焼失と、我が国は甚大な被害を受けました。その後、九州上陸に失敗した刀伊軍は、帰りがてらに高麗を襲撃、またこれにも失敗しましたが、その戦闘の際、捕虜となっていた日本人の一部(およそ300名)は高麗軍によって救出され、高麗の手で太宰府まで送り帰されています。 この事件は、藤原氏による摂関政治の行き詰まりとは対照的に、新興勢力である「武士」が台頭する時代の潮目となった事件でもありました。  

文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)
蒙古襲来絵詞
(もうこしゅうらいえことば)
「竹崎季長の蒙古襲来絵詞に書かれている、菊池次郎武房」

竹崎五郎兵衛季長と菊池次郎武房の初対面(あいさつ)
博多の陣を打ち出で 肥後の国(の先駆け)一番と存じ 住吉の鳥居の下を過ぎ 小松原を内通りて赤坂に馳せ向かうところに あし毛なる馬に紫逆面高の鎧に紅の幌掛けたる武者
その勢百余騎ばかりと見えて 凶徒の陣をXXXて破り 賊徒を射落として 首二 太刀と薙刀の先に貫きて 左右に持たせて誠ゆゆしく見えしに 「誰にて渡らせ給え候ぞ 涼しくこそ見え候え」 と申すに 「肥後の国菊池の次郎武房と申す者に候 かく仰せられ候は誰ぞ」と問う
「同じき内 竹崎の五郎兵衛季長 駆け候 ご覧候え」 と 申して馳せ向かう

菊池次郎武房の陣の前で
人々多しと言えども 菊池の次郎武房 文永の合戦にて名を上げしをもって 武房の固めし役所の石築地の前に打ち向かいて 「将軍(蒙古方)の兵船は本柱を白く木に塗りて 白く候」
と受け給い候 「惜しむかて人やい候て 君のげざむにまかり入り候はんために合い向かい候
ご存命候はば ご披露候え」 と言いて 打ち通る

元弘三年(1333年)旧の三月十二日
博多、九州探題を攻める
十二代菊池武時は、後醍醐天皇の綸旨により、博多の九州探題を襲撃しました。
しかし、大友氏、少弐氏からの応援を断られ、一族百数十名と共に討ち死、、、、。
「故郷に 今宵ばかりの 命とも 知らでや人の われを待つらむ」
これは、博多九州探題への討ち入りの前夜、十二代菊池武時が詠んだ辞世の句です。
元弘三年(西暦1333年)旧の三月十二日、菊池家十二代惣領菊池武時は、後醍醐天皇の綸旨を携え、博多九州探題への討ち入りを明日に控え、陣中の嫡子菊池武重を呼び、自らの小袖を破り、この辞世の句をしたためて、故郷の妻へと託しました。明日、父武時と共に九州探題に攻め入る覚悟の嫡子武重を、肥後に帰すための苦肉の策でもあったのかもしれません。また、この歌には肥後に残された一族の者たちを案じながらも、討ち死を覚悟で戦場に赴く、武時の強い想いも込められています。討ち入りの理由はどうあれ、これが、まさに、菊池魂であろうかと思います。

「氏の神様」
千手観音菩薩と菊池家
「千手観音菩薩」は、菊池家のご先祖(熊野牟須美大神)を氏神様としてお祀りした「熊野十二所大権現」の本地仏。古くは菊池家の氏寺「肥後輪足山東福寺」のご本尊として、また、現在でも菊池家の仏壇のご本尊として、菊池嫡流の由緒を表す仏像です。十二所神社も、菊池家のご先祖を熊野十二所権現十二柱の神々としてお祀りしたものです。熊野十二所大権現 第一殿西御前は、熊野牟須美大神・事解之男本地仏は「千手観音菩薩」です。また、平成二十年に熊本県教育委員会の発掘調査で、熊本県の鞠智城跡から発見された小さな仏像も、七紀頃の百済由来の仏像の特徴を持つ「千手観音菩薩」です。したがって「千手観音菩薩」は、菊池家の歴史を表す仏像で、古代からの第一の宝物です。

わが菊池家の氏神様
(十二所神社)
熊野十二所大権現の祭神
上四社
第一殿(西御前):熊野牟須美大神・事解之男神(千手観音
第二殿(中御前):速玉之男神(薬師如来)
第三殿(證証殿):家都美御子大神(阿弥陀如来)
第四殿(若宮):天照大神(十一面観音)
中四社 
第五殿(禅児宮):忍穂耳命(地蔵菩薩)
第六殿(聖宮):瓊々杵尊(龍樹菩薩)
第七殿(児宮):彦火火出見尊(如意輪観音)
第八殿(子守宮):鵜葺草葺不合命(聖観音)
下四社
第九殿(一万十万):軻遇突智命(文殊菩薩・普賢菩薩)
第十殿(米持金剛):埴山姫命(毘沙門天)
第十一殿(飛行夜叉):弥都波能売命(不動明王)
第十二殿(勧請十五所):稚産霊命(釈迦如来)


熊野十二所大権現のシンボル八咫烏(やたがらす)
(富士に八咫烏、少し金箔が残っています。)
菊池武重と熊野権現(十二所権現)
今坂正哉氏が、現代人に理解できるように、寛政六年の渋江公正著「菊池風土記」を忠実にリメークした現代版には、(一、菊池武重の建立とされる熊野権現が、流川村にあり、、以前は、今宮を祀っていたので、今でも神殿には今宮様のご神体が鎮座している。)(121ページ)などと書かれ、菊池武重と熊野権現の関連が明確な歴史的事実として残っています。わが菊池家の氏神様「熊野十二所権現」は、菊池武重の想いを今に伝え、その子孫の証です
わが菊池家の氏神様
十二所神社
(熊野十二所大権現を祀る)
(先頭が筆者)

昭和初期、菊池家氏神社の御祭りに「鍵取り主」として参加する筆者。 

「菊池家千手観音菩薩」の特徴と時代考証
吉川弘文館発行の「仏像の再発見、鑑定への道」
(著者、西村公朝氏)を参考に、菊池家千手観音菩薩の検証を進めます。

画像処理により、黄金の千手観音菩薩にしてみました。
(1)
この千手観音菩薩は、携帯用の仏像と思われますが、金属製(型に金属を流し込んで作る鋳造)で体高は台座を含めて3.6cmと非常に小型の仏像です。(その大きさは、ようじの長さと比較すればお分かりになると思います)小さいながらも、細工は細部にわたっても一切の手抜きはありません。以前は、金箔などの装飾が施されていたのかもしれませんが、永い年月を経た今は金箔も剥がれ、ただ黒光りするだけの、一見しただけではその歴史的背景を見落としてしまいそうな仏像です。
(下の写真は、画像処理によるもので色が違いますが同一のものです。)

(上は正面からの写真です)
(2)
側面に中心線を引いてみると天平時代の仏像の特徴を示しています。全体的に太目で、胸を張り威風堂々としています。西村先生の著書の図と比較をして見れば、よくわかると思います。


(3)
小さい仏像ですから、細工は難しかったのかもしれませんが、それにしても良くできています。年代を経ているため細部はすり減っていますが、顔の特徴も丸顔に近い天平から平安期の特徴をしています。下の、西村先生の著書の図から見ても間違いないと思います。


(4)
衣のひだも、天平から平安期の特徴であるふっくらと丸みを帯びた深いひだを成しています。足元のひだは、左右対称ではなく大波小波のようなひだに見えます。ひだの先端は丸みがあり、決して鋭くはありません。下の図(西村先生著書)と比較して下さればよくわかります。


(5)
衣のすそは、天平から平安期の特徴を示しています。正面からは、平安時代の特徴のように足元の左右の衣の先端が足底と同じ高さに下りています。側面の衣のすその形状は、直線ではなく、逆二山になって天平期の特徴を示しています。


天平時代は、菊池家の成立より約300年近くも前になります。もしも、私の時代考証が正しければ、祖先が千三百年もの永い間、大切に守り伝え仏像が今も存在していることに私自身も大変に驚いています。最初に、この仏像を見たときに私は、どのような仏像なのか、見当がつきませんでしたが、調べていくうちに千手観音だと分かり、そして、のちにそれが菊池家の大切な宝であると分かった時には、目頭を熱くしました。


千手観音菩薩の衣の裾が、蓮華座よりも下に垂れさがっていますので、
かなり古い時代に造られた仏像だと思います。

氏神様
日本の古代における氏は、祖先を同じくする血縁集団およびそれを中心に結合した氏子集団のことで、氏の集団は強い同族意識で構成されていました。後に、氏の祖先は神として崇められ氏神様と呼ばれるようになりました。古代より続いた氏族は祖先を神として崇め、氏神様として祀っていました。我が家は古来より伝承された熊野の大神を、現在も氏神様(祖先神)としてお祀りしています。つまり、古代の氏神様はご先祖を神様として祀ったものです。(氏神様は、現在の仏様のような存在だったのかもしれません.)しかし、歴史が上り祖先への関心も薄れ、多くの人は祖先も分からないような時代ともなれば、氏神様は、地域の人を受け入れて土地の産土神として変容しました。いわゆる鎮守の神様として、土地の守り神となったのです。現在の多くの氏神様や氏子は、古代の氏神様や氏子の概念からはかけ離れた存在になってしまったのです。古来より、代々と家に伝わる祖先や氏神様を伝承している者は、ごく、少数派です。しかし、その家の歴史や伝承を消滅させることはできません。現在は、各家が独自に伝承し、独自にお祀りするよりほかに道はありません。我が家も祖先の歴史と伝承を守るために、独自に氏神様をお祀りをしているところです。同姓であっても血縁関係は不明ですから、本来の意味での古代からの氏神を祀る菊池家は、現存しているのか、いないのか、定かではありません。
氏神様の変遷
菊池家の最初の家紋は、日足紋と云われています。日足紋は、太陽を表すもので菊池家の家紋として用いるようになりました。しかし、その後、六代隆直は、現在の「丸に違い鷹の羽」紋に改めました。当時、菊池家は、「違い鷹の羽」を神紋に持つ阿蘇神社の氏子でしたから、その神紋のご利益を祈念しての家紋の変更であったものと思います。丸を付けたのは、菊池家の旗印と阿蘇家の旗印を見分けるためでもあったと思います。、、と、言うことは、両家が前述の通り強い同族意識をもつ氏子集団を形成していたことにもなりますが、阿蘇家と菊池家の祖先が、同じ血縁関係で結ばれていたのかどうかは不明です。しかし、長い間、深く強い絆を保っていたことは、歴史上も明らかな事です。このため菊池家の家紋は、阿蘇神社神紋の「違い鷹の羽」に丸を付けて用いたのだと思います。菊池家と阿蘇家が長い間良好な関係を保つことができたのは、このような氏子関係があったからこそだと思います。
そのあと、嫡流家の十三代菊池次郎武重と十四代菊池又次郎武士は、阿蘇家の娘を妻にした庶流家の豊田十郎武光と、武光を支援する阿蘇家及びその家臣団によって、家督を奪われ排除されました。これ以来、菊池嫡流家は阿蘇家や豊田家とは敵対関係になりました。この敵対関係は、嫡流家(菊池家)と庶流家(豊田家)の家紋が違うことにも伺えます。庶流家の家紋は、豊田武光が後醍醐天皇から拝領した「並び鷹の羽」紋となりました。後に、阿蘇家の大宮司阿蘇惟長によって庶流の豊田系菊池政隆が惣領の座を奪われると、庶流も阿蘇神社との氏子関係や絆が自然消滅し、阿蘇家、豊田家は敵対関係に変わりました。その敵対関係は、九州から菊池家や豊田家の縁者、家人の東国移住を促す大きな要因となりました。当時は戦国時代ですから、敵対する者からできるだけ遠く離れたところに移住することが安全ですから、東国に活路を求めたものと思われます。このような訳ですから、菊池家の氏神様はいつまでも阿蘇神社というわけにはいきません。各家々は、それぞれの理由で新たな氏神様を求めたのでしょう。わが菊池家は、それ以来、本来の菊池家の氏神様である熊野十二所権現を氏神様としてお祀りしたのだと思います。熊野神社と菊池家の関係を大胆に想像すれば、中国の歴史書、三国志の中の魏志倭人伝に登場する、狗奴国の官(将軍)鞠智比古(菊池彦)の祖神は、狗奴国の王、卑弥弓呼の祖神と同じで、狗奴国の祖先を熊野大神(くまのおおかみ又は大君)としてお祀りしたのが、元々の熊野神社の発祥(熊野権現垂迹縁起によれば、九州の英彦山

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が我が国の熊野神社の発祥地とされている)と考えることができます。現在、菊池家は本来の菊池家の祖神である熊野十二所権現を、氏神様としておまつりしているのだろうと思っています。また、熊野十二所大権現の第一殿、熊野牟須美大神の本地仏は千手観音菩薩です。千手観音菩薩と菊池家関係、七世紀後半に百済からの亡命貴族によって改修されたと言う鞠智城跡から発見された千手観音菩薩などからも、菊池家は、古来より鞠智城(鞠智城は、七世紀後半に大和朝廷によって修復されていますが、最初の築城年代や城主名は不明。)にも縁のある一族であろうと考えています。菊池家は熊野十二所大権現を氏神様として、古来より祀り崇めていたものだろうと思われます。

 氏神様のお祀り
旧暦3月12日は、我が家の氏神(祖神)熊野十二所大権現のお祀りです。世が変わり祀りの形は変化しても、古来より、一度も欠かさずにお祀りを行っています。狗奴国の大王を、今でも熊野の祖神として崇め、代々、伝承していたことを誇りに思います。(最近では、諸々の事情もあり、我が家だけのお祀りですが、、、、。)本来の氏神様は、祖先を神として祀るもので、血縁関係にある子孫が氏子となり祖先を神として尊崇していました。現在は氏神様もなく、氏神様などわからないと言う家がほとんどだと思いますが、最近では、土地の神社の神様を鎮守様や氏神様として尊崇するようになりましたので、氏神様の不明の方は、それでも良いのだと思います。わが家の氏神様は、祖先がこの地に土着した時に祀ったと伝承されていますが、後に、村社となり我が家は、代々、鍵主を務めてまいりました。村社となった後も、十二所神社は十二所大権現様がお祀りされているものと、私は、当然ながら確信をしていました。しかし、神主に問い詰めたところ、お祀りしている神々の中に、十二所大権現様が入っていないことが判明いたしました。それは、今から十三年ほど前の事ですが、私はそれを聞いて愕然と致しました。我が家の氏神様を村社として祀りあげ知らぬ間に氏神様を排除していたとは、何とも気が収まらず、私はすぐにその場で鍵主を辞し、別の神主にお願いをして、我が家の神棚に、十二所神社の氏神様を移しお祀り致しました。有り難いことに、これからは神棚の氏神様は、どこにでも移すことができます。昔は、同じ地に代々住み続けましたが、現代社会では住む場所も変わりますので、引っ越しなどには本当に便利で喜んでいます。現在、私は別の場所にいますので、神社に束縛されずに済んで、氏神も守ることができて一石二鳥と言ったところです。我が家の祖神熊野十二所大権現様は、代の続く限り伝承し、お祀りして尊崇したいと思います。
熊野権現垂迹縁起によると
熊野権現垂迹縁起は、現存する文書としては熊野縁起として最古で、長寛元年(1163年)から二年にかけて、当時の学者や公家が朝廷に提出した書類をまとめたものを、朝寛勘文と呼びます。その「朝寛勘文」に、熊野権現の由緒が記載されています。それによれば、昔、甲寅の年、唐の天台山の王子信(オウシシン。王子晋は中国の天台山の地主神)の旧跡が、日本の鎮西(九州)の日子の山峯(英彦山。ヒコサン)に天降りになったその形は、八角形の水晶の石で高さは三尺六寸(約110cm)であった。それから五年後、戌午の年に伊予国(愛媛県)の石槌の峯(イシヅチサツン。石鎚山)にお渡りになった。それから六年後、甲子の年に淡路国(淡路島)の遊鶴羽の峯(ユズルハサン)にお渡りになった。それから六年後、庚午の年三月二十三日、紀伊国牟婁郡切部山の西の海の北の岸に玉那木の淵の上の松の木の本にお渡りになった。それから57年後、庚午の年三月二十三日、熊野新宮の南の神蔵の峯にお降りになった。それから61年後、庚午の年、新宮の東の阿須加の社の北、石淵の谷に勧請し奉った。初めは結玉家津美御子と申した。2宇の社であった。それから13年後、壬午の年、本宮大湯原(大斎原(おおゆのはら))の一位木(イチイ)の3本の梢に3枚の月形にて天降りなさった。それから8年後、庚寅の年、石多河(石田川(いわたがわ))の南、河内の住人、熊野部千代定という犬飼(猟師)が体長1丈5尺(約4.5m)もの猪を射た。跡を追い尋ねて、石多河を遡った。犬が猪の跡を追って行くと、大湯原に行き着いた。その猪は一位の木の本に死に伏していた。肉を取って食べた。その木の下で一夜、泊まったが、木の梢に月を見つけて問い申し上げた。「どうして月が虚空を離れて木の梢にいらっしゃるのか」と。月が犬飼に答えておっしゃった。「我は熊野三所権現である」と。「一社は證誠大菩薩(しょうじょうだいぼさつ)と申す。今2枚の月は両所権現(りょうしょごんげん)と申す」とおっしゃった。(以下略)となっています。以上の文章から、熊野権現は中国天台山から飛来し、英彦山、石槌山、諭鶴羽山という修験の霊山を経て東に進み、熊野に垂迹したとされますので、渡来の民と在地の民の戦闘による融合から、融合した勢力とさらに東部の在地勢力の民の戦闘を繰り返して勢力を増し、次第に東に進んで行ったことが読み取れます。そもそも子の文書の年代や日数などは、伝承として神話化された文書ですから、文書が書かれた時にはすでに明確なものではないでしょう。私は、この神話の元になる年代を想定するとすれば、邪馬台国と狗奴国の戦いの前後(西暦250年前後)であったと思います。
九州の日子の山峯に降りたとされていますから、九州の熊野(球磨)地域であり、日子は狗奴国の大王 日見弓子(卑弥弓呼)や狗奴国の官 鞠智日子(狗古知卑呼狗)の支配地域を指すのではないかと思います。これらの伝承は、邪馬台国を滅ぼした狗奴国の東旋によって、熊野権現が順次、東進していった証拠と見ています。つまり、熊野権現とは、狗奴国の大王を熊野の祖神としてお祀りしたものであろうと思います。菊池家が熊野権現や熊野十二所権現、十二所神社を菊池家の氏神として祀ることから、菊池家の祖であり狗奴国(球磨国)の官であった鞠智日子も狗奴国の大王に血縁があったのかも知れません。
このことは「菊池家の祖先は鞠智日子」の可能性があると言うことです。
熊野本宮の開基
熊野十二所権現の第一の神様(一番偉い神様)は、熊野の大神(熊野(狗奴国)の大王を祖神として崇める)です。熊野権現垂迹縁起にも、九州の英彦山から東旋したと記されていますので、九州の熊野から紀伊の熊野に東進した事実を表したものだと思いますが、しかし、いつの間にか熊野本宮は崇神天皇(すじんてんのう)の時代(紀元前29年ろ)に開基されたとされているので、歴史が大きく歪曲化されているのではないかと思います。そもそも、紀元前に熊野神社があったのか、なかったのか、定かではありませんし、魏志倭人伝に狗奴国(球磨国、熊国)が登場するは240年代の戦乱期ですから、戦乱の時代が過ぎて、国家が安定期入ってからでなければ、神様や神社をお祀りして維持することは、非常に困難であったと思われます。以上の事から、私は大和朝廷の成立後の政権基盤の安定期になってから、東進した熊野を祖神とする勢力によって、紀伊に熊野神社が開基されたと見ています。

ところで、一族とは何でしょう。
辞書で調べれば、同じ血統、同じ氏族に属する人々、同族、一門、家族などとなっています。しかし、このHP「忠誠の菊池一族」では、同じ血統を持つ者の集合体を指す一族ではなく、肥後菊池家を継いだ武家集団としての菊池一族を想定致しました。本来、菊池一族とは肥後菊池家の遺伝子を持っている者の集合体を指す言葉です。
菊池を冠する人々
「菊池一族のいずれかの家に血縁のある者」と、菊池家が初代に藤原氏の子孫と名乗ったように、「血縁はなくとも菊池家に何らかの関連があり、菊池姓を名乗った者」、また、菊池家に「関連はないが菊池家の勤皇や忠誠心に感銘し菊池を名乗った者」、「ただ何となく、必要に迫られて菊池を名乗った者」「半ば、強制的に菊池を名乗らされた者」など、菊池姓をもつ理由や動機はいろいろです。もちろん修験者など宗教の布教活動家や家紋、家系図の制作者などによる菊池姓の全国的な伝播は、他の姓と同様に、古来より菊池姓の拡大に大きな役割を果たしていたものと考えています。菊池姓が一本の線のように、広い地域に連続して存在していることからも、姓の伝搬の様子をうかがい知ることができます。「常陸の菊池一族は、肥後の菊池一族」と書かれている書物等もありますが、どの地域の菊池を冠する者も、上記のようにさまざまな血脈を持つ者の子孫であることに変わりはありません。したがって、常陸の国においても菊池姓は、一系ではありません。
そして前述の、「常陸の菊池一族」も存在しません。
苗字が同じだからと言って、同じ祖先の血脈を持つ子孫とは限らないのです。

そもそも名字とは、、
武家の苗字は、荘園など支配している土地の地名を苗字として名乗ったのが、始まりとされています。苗字は、家督と共に嫡子に受け継がれました。庶子などは、相続した土地の名を苗字としたようです。このころ、御家人や一般庶民も住んでいる地名などの苗字を、名乗ることができたと言われています。また、主人から土地や土地にちなんだ苗字を恩賞として賜ることもあったようです。しかし、江戸時代になると武家以外では庄屋や名主は苗字を名乗ることができましたが、一般庶民は苗字を名乗れませんでした。ほとんどの人に今までの苗字があったのですから、江戸幕府の政策で一般庶民は江戸時代から公に苗字を名乗れなくなったと言った方が良いでしょう。苗字が隠れて伝わっていたということです。しかし、明治3年9月19日の平民苗字許可令、明治8年2月13日の平民苗字必称義務令により、国民は公的に苗字を持つことになりました。苗字必称令の際には、江戸時代までにつけられた苗字を名乗るものが多かったそうです。しかし、それまでの苗字は先祖伝来のものを名乗るとは限らず、地元の有力者に従って苗字を変えるものなどもいて、血のつながりとは無関係に同じ集落の者がみな同じ苗字などと言うことも起こったようす。つまり、血縁のある者、ない者が心を一つにするために利用され、それが、発展して同じ苗字が増加したと言う側面もあり、それは、それで、先人の誇るべき知恵の一つでもあったと思いますまた、少数派ですが、苗字がわからない者は僧侶や名主にたのんで適当な苗字を付けてもらったり、自分で新たに創作した苗字を名乗る例もあったとされています。このため、苗字の多くは、苗字だけでその正確な由来を追跡することは、困難であるとされています。従って、現在の苗字は血族を表すものではありません
わが祖先菊池武重の消息は、歴史上ではまったくの不明です。戦の中で、突然、消息が不明になったとされている文書もあります。後年の歴史家は、病を得て病死したとか、僧籍に入ったとか、いろいろと想像をたくましくしていますが、それは、都合良く歴史のつじつまを合わせるための苦肉の策でもあったのだと思います。しかし、肥後から遠く離れたところに来ている訳ですから、当時の情報網では決して捉えることが不可能だったことは確かだと思います。私どもは、菊池家の子孫と伝え、代を繋いでまいりました。伝承、遺物、家例を照合しさらに究明したいと思います。

菊池家の内紛
菊池家は、約1000年前、九州肥後の菊池郡(きくちのこうり)に居を構えた藤原則隆が初代とされ、平安時代から室町時代にかけては、菊池家は九州武家集団の雄とされていました。南北朝時代は南朝の忠臣として活躍しましたが、家督をめぐる内部抗争は激く、十代菊池武房の子武本は、早世した兄の隆盛亡き後、家督をめぐり隆盛の嫡男で甥の十一代時隆と争いました。そして、鎌倉幕府の評定に不満を抱き時隆を殺害、武本自身も自害して果てました。そのあとを、時隆の弟武時が十二代菊池家惣領を継ぎました。武本の子武村は、甲斐国に逃れましたが、鎌倉幕府の滅亡後、武村の子重村は足利氏に属して足利尊氏と共に九州に進軍し、甲斐氏を名乗り反菊池である武家方として戦いました。延元三年(1338年)に大友氏と肥後へ進軍しましたが、菊池武重に敗れ日向に逃れました。日向や高千穂には甲斐一族が土着したためか、今でも甲斐姓が存在していると言われています。武時の跡は、武重、武士、そして武重の嫡子十五代乙阿迦丸と嫡流が続きましたが、いつの間にか庶子家や家臣団の発言力や軍事力が高まり、力の衰えた嫡流は菊池家の将来に暗雲が立ち込めるのを感じ、肥後から自然消滅のように消えてしまいました。(消息が不明とされているのは、武重、乙阿迦丸などですが、東国に身を隠して族滅を回避したのかも知れません。)

その後、武士の異母兄で庶流の豊田十郎が、菊池次郎武光と改名して菊地家十六代惣領となりました。武光は内談衆にも入っていないという嫡流家からは、ほど遠い存在ではありましたが、阿蘇家や庶子家の力を背景に強力な戦闘力に加え、武光自身のカリスマ性で庶子家や家臣団を束ね、自らの力で菊池家惣領の座を得たのでした。

しかし、その後庶流も二十四代の政隆で絶え、阿蘇家の阿蘇惟長(阿蘇家の十七代当主で阿蘇神社大宮司)が二十五代菊池武経を名乗り菊池家の惣領となりました。

そのあと、庶流の託摩家から二十六代菊池武包(菊池家庶流で詫磨武安の子)が家督を継ぎましたが、室町時代の後期永正17年(西暦1520年)に大友義長の子大友重治が、二十七代菊池義武を名乗り菊池家の当主となりました。

しかし、この菊池義武も天文23年(西暦1554年)に甥の大友義鎮に攻められ、自害して果てました。これが、九州肥後の武家集団菊池家の最後でした。

これまでの歴史では、武士の跡を継いだのは武光とされていましたが、それは乙阿迦丸と武光が同一人物であるという説によるものです。武時の博多攻めに同行した時の年齢を比較すれば、武時が42歳、武重26歳、武光14歳、武士12歳の時、乙阿迦丸は5歳でした。したがって、この武光、乙阿迦丸、同一人物説は間違いだったということになります。実際に乙阿迦丸の発願文があり、武重武士の跡を継ぐという強い意志と決意を表しています。しかも、武光が正式に菊池家惣領となるのは、その発願分の日付の数年後となっていますので、乙阿迦丸も約2年間菊池惣領を務めたことになります。

しかし、一度庶流家に渡った家督は二度と嫡流家には戻りませんでしたし、他家に家督が渡れば庶流家には家督は戻りませんでした。家督を奪われれば敗退せざるを得ませんし、一度敗退すれば戦国の世の敗者復活は非常に困難であったということだと思います。敗者は、家系の継続を守るため、出来る限り遠方に活路を求めたものと思われます。遠く離れた地にのがれることが、唯一の選択肢でもありました。戦国時代の下剋上は、情け容赦ない過酷な戦いであったと言えます。戦いに敗れたものは、命からがら国を逃れるのに精いっぱいであったのでしょう。なぜ、嫡流家の嫡男が後を継ぐという本来の惣領制を維持できなかったのかと考えれば、熾烈な生存競争と家督相続への強い欲望が、それをさせなかったのかも知れません。これが、戦国時代の悲しい現実であり、武士の宿命でもあったのでしょう。


菊池槍
菊池槍の板目肌が見えます(解像度が上がりました。)


菊池家惣領の変遷
(菊池家は、血縁関係で継続したのではなく菊池家というブランド武家集団名で継続したのです。)
  初代 (嫡流家)菊池則隆(家紋は、日足紋)
  二代 (嫡流家)菊池経隆(家紋は、日足紋)
  三代 (嫡流家)菊池経頼(家紋は、日足紋)
  四代 (嫡流家)菊池経宗(家紋は、日足紋)
  五代 (嫡流家)菊池経直(家紋は、日足紋)
 
  六代 (嫡流家)菊池隆直(家紋は、丸に違い鷹の羽)
  七代 (嫡流家)菊池隆定(家紋は、丸に違い鷹の羽)
  八代 (嫡流家)菊池能隆(家紋は、丸に違い鷹の羽)
  九代 (嫡流家)菊池隆泰(家紋は、丸に違い鷹の羽)
  十代 (嫡流家)菊池武房(家紋は、丸に違い鷹の羽)
 十一代 (嫡流家)菊池時隆(家紋は、丸に違い鷹の羽)
 十二代 (嫡流家)菊池武時(家紋は、丸に違い鷹の羽)
 十三代 (嫡流家)菊池武重(家紋は、丸に違い鷹の羽)
 十四代 (嫡流家)菊池武士(家紋は、丸に違い鷹の羽)
十五代(嫡流家)菊池乙阿迦丸(家紋は、丸に違い鷹の羽)
(嫡流は、十四代まで続きましたが、庶流の豊田十郎に惣領の座を奪われてしまいました。)

(これより庶流家の家紋は、武光が後醍醐天皇から下賜された並び鷹の羽紋になる)
 十六代 (庶流家)豊田十郎(菊池武光)(家紋は、並び鷹の羽)
 十七代 (庶流家)豊田系 (菊池武政)(家紋は、並び鷹の羽)
 十八代 (庶流家)豊田系 (菊池武朝)(家紋は、並び鷹の羽)
 十九代 (庶流家)豊田系 (菊池兼朝)(家紋は、並び鷹の羽)
 二十代 (庶流家)豊田系 (菊池持朝)(家紋は、並び鷹の羽)
二十一代 (庶流家)豊田系 (菊池為邦)(家紋は、並び鷹の羽)
二十二代 (庶流家)豊田系 (菊池重朝)(家紋は、並び鷹の羽)
二十三代 (庶流家)豊田系 (菊池能運)(家紋は、並び鷹の羽)
二十四代 (庶流家)豊田系 (菊池政隆)(家紋は、並び鷹の羽)
(庶流も、阿蘇神社大宮司の阿蘇惟長によって惣領の座を奪われ、以後、激しい家督争いが始まる)

二十五代 (阿蘇家) 阿蘇惟長(菊池武経)(家紋は、並び鷹の羽)

二十六代 (託摩家) 託摩武包(菊池武包)(家紋は、並び鷹の羽)

二十七代 (大友家) 大友重冶(菊池義武)(家紋は、並び鷹の羽)

ついに、肥後菊池家は、二十七代で消滅をしました。しかし、それぞれの系類の子孫は、すべてが絶えたわけではありません。それぞれの子孫は、今もどこかで静かに代を繋いでいることでしょう。

武家集団菊池一族としての係累図
「嫡流(菊池)家、→庶流豊田)家、阿蘇家、→庶流詫摩家、大友家

太宰府官藤原蔵規(菊池政則、対馬守)
 ↓
初代菊池則隆
(大夫将官)延久2年(1070年)
               ↓    
政隆(西郷太郎)−保隆(小島次郎)−二代、菊池経隆(若宮、菊池三郎肥後の守)
          
経政(山鹿大夫)−三代、菊池経頼(兵頭次郎)−通後(兵頭大夫)−安頂(三郎禅師)
−経明(合志五郎)−経平(迫間五郎)
                              
四代、菊池経宗(鳥羽院武者所)−経長(天草兵頭大夫)−経家(藤田三郎)−経遠(詫摩四郎)
    −経秀(村田五郎)−経綱(長坂小太郎)−経信(出田)
↓                            
五代、菊池経直(鳥羽院武者所)−経俊(赤星祖、七郎)−俊道(次郎)−経継(佐野三郎)  
  ↓                  
       経親(経俊の子)                             
                                   
六代、菊池隆直(菊地九郎肥後守)阿蘇十二宮大明神の歌がある、(あさくとも ふかくたのめや 菊池川 阿蘇のけふりの たえぬかぎりは)
↓        
隆長(永野太郎)−七代、菊池隆定(孫次郎)−秀定(砥川三郎)−直方(合志四郎)
−隆俊(八代五郎)
                     
隆継(小次郎、父隆定より先に死するため、家を継げず。)
↓             
八代、菊池能隆(弥次郎)                     
↓               
九代、菊池隆泰(従五位下、式部大輔)−隆政(西郷太郎)−隆時(加恵九郎)−隆経(城祖)
                 −実照(本郷四郎左衛門)
                         
覚仏頼隆(輪足山院主)−十代、菊池武房(次郎)−有隆(赤星三郎)−高顕(若宮四郎)
         −隆冬(五郎)
                                       
隆盛(孫四郎、父より早世し家を継がず)−道武(堀川三郎)−武本(六郎、時隆と家督を争い鎌倉にて死す)−武成(長瀬七郎)
  ↓     −武経(八郎)−武門(十郎)−武村(重富与一)
↓                
十一代、菊池時隆(太郎八郎字、叔父武本と家督を争い利するも、武本と差し違えて死す。)−
十二代、菊池武時(名正竜丸、次郎、時隆の弟)
↓            
十三代、菊池武重(次郎、肥後守左京大夫、消息不明)−頼隆(父武時と共に博多で戦死)
−武茂(木野、対馬守)−武瞬(博多で戦死)−武澄(対馬守)−武吉(七郎、湊川にて楠正成と共に戦死)−武豊−武敏(掃部助)六代、豊田武光庶流家、豊田十郎武光、武重の異母弟)−武隆(六郎)

十四代、菊池武士(武重と同腹の末弟、又次郎)−武尚(高瀬)−武義          
十五代、菊池乙阿迦丸(武重の嫡子と考えられる、消息不明)-重子(懐良親王妃)  
十七代、豊田武政(武光の子、肥後守三十三歳で早世する。十六代武光より庶流家が家督を継ぐ)                        
            
      十八代、豊田武朝(十二歳で家督を継ぐ、肥後守)−良臣(右馬助)
                                  −武相(高瀬十郎)                                         十九代、豊田兼朝(左京大夫)−武楯(高瀬相模守)−英朝(千田伊豫守)                   −兼士(大蔵少輔)
                            
           二十代、豊田持朝(佐兵衛肥後守)−忠親(比弥次郎)
                    −武徳(佐京大夫)−武弘(三郎)−武明(十郎)                       
             二十一代、豊田為邦(次郎、肥後守)−為安(次郎三郎、備前守)−
                       −詫摩為房(又二郎)−宇土為光(次郎太郎)   
             二十二代、豊田重朝(藤菊丸)−武国(謀反により討死)−加賀丸               
   ↓
          二十三代、豊田能運(肥後守)
      
         二十四代、豊田政隆二十一代為邦の弟為安の子重安の嫡男
                  
阿蘇家から二十五代阿蘇惟長(阿蘇大宮司、菊池武経、国侍八十四名の連判誓書を持って、菊池の養君を申請した。これにより政隆は自害した。)     
 ↓      
 詫摩家から二十六代託摩武包(菊池武包、二十三代能運の弟、詫摩武安の子         ↓         
 大友家から二十七代、大友重冶(菊池義武、大友修理大夫義長の子、天文二十三年、
1554年、十一月豊後において切腹。)
「武家集団としての菊池家は、これにて断絶しました!」

(二十七代目には、武家集団としての菊池家は滅亡、菊池家督は大友氏に併合されました。)
親子、兄弟までもが相対する戦国の世は、現代人の想像を遥かに超えた地獄図のようなものであったに違いありません。

私の調べたところでは、
菊池家の歴史や系図から無視をされていましたが、菊池乙阿迦丸が
興国三年から興国五年まで菊池家惣領を務めたことが判明致しました。
下は、興国三年八月七日付の菊池乙阿迦丸の発願文です。
「菊池市史より」


上の系類図で、乙阿迦丸を武重の嫡子としたのは、上の発願文に「武重武士の家を継ぐの間、文武二道に於いて、仰いで正直の天命を守り、肖人の義に同ずべからず候」という文言が残されていた事から推測しました。(嫡流家の嫡男が惣領を務めるのが、本来の惣領制であることから考えば、武重の嫡男であることは明白で、惣領を継ぐのは当然のこと。)元弘3年3月13日の博多の九州探題攻めには、当時五歳の乙阿迦丸(乙阿迦丸が武光であるとされている書物もあるが、年齢的にも合わず、武重の嫡子と考えられる)や武光(当時14歳)も武時、武重(当時26歳)に同行いたしております。しかし、形勢不利と見た武時によって武重や武重の弟らと共に肥後に帰されています。1338年10月頃から、武重の姿が歴史に残っていないことを見ると、武重は惣領を務めることを自ら辞退したのか、寄合衆の内談で排除されたのか、どちらかであろうと思います。その理由は、いろいろと考えられますが、歴史上武重は消息不明であり、現在も、その生死の詳細や没年、墓地などもはっきりと確定をされていません。その頃、武重はまだ十歳になったばかりの嫡子乙阿迦丸に家督を譲れず、嫡流家の弟武士に乙阿迦丸が成長するまでの間家督を一時的に任せたのではないかと思います。武士もその兄との約束を果たしたのだろうと思います。乙阿迦丸の発願文は、興国三年(1342年)となっていますから、家督を継いだ乙阿迦丸は、15歳から16歳の若武者であったろうと思います。興国三年三月に、武士が乙阿迦丸に家督を譲ったのは、上の発願文からも明らかですが、庶子家の武光を支える庶子家や阿蘇家など家臣団は多く、その後武光が菊池軍団の主導権を握っていたのは確かで、嫡流家からの反対を押し切るように、興国五年の暮れ頃に家督は自然に武光に移っていったのでしょう。当時、武光は24歳から25歳でしたが、阿蘇家の娘を妻として迎え、阿蘇家との親戚関係も武光の大きな力となったように思います。その後は、武重や乙阿迦丸など嫡流が忽然と消息を絶っています。庶流家が家督を握る時代となり、嫡流家は排除され、族滅を恐れ肥後を後にしたと考えられます。



 袖ヶ浦の別れから676年

故郷に 今宵ばかりの 命とも 知らでや人の われを待つらむ

これは、博多九州探題への討ち入り前夜、十二代菊池武時が詠んだ辞世の句です。元弘三年(西暦1333年)旧の三月十二日、菊池家十二代惣領菊池武時は、後醍醐天皇の綸旨を携え、博多九州探題への討ち入りを明日に控え。陣中の嫡子菊池武重に自らの小袖を破り、この辞世の歌を故郷の妻に託しました。

父武時と共に九州探題に攻め入る覚悟の嫡子武重を、肥後に帰すための苦肉の策であったのかもしれません。また、この歌には肥後に残された一族の者たちを案じながらも、討ち死を覚悟で戦場に赴く、武時の強い想いが込められています。

菊池家の再興と継続を託され、肥後に帰った武重は、その一ヶ月後、九州反幕府勢と共に九州探題を滅ぼし、菊池家の再興に尽くしました。この戦で、予想以上の恩賞を賜り、お家再興ができたは楠正成公の進言があってのことでした。正成公は御前会議の席で、菊池家への恩賞を厚くするように、後醍醐天皇に進言をされました。この正成公の進言で、菊池家への恩賞が厚くされたと伝えられています。

武重と楠正成公の密接な関係は、現在でも家紋に残っています。正成公が後醍醐天皇より下賜された楠家の家紋「菊水紋」は、菊池家の裏紋として現在まで伝えられ。武重が正成公の進言にどれほど感謝していたのが良くわかります。結果として、武時と武重親子は、九州探題への討ち入りに一族からの多くの犠牲を伴ったものの、その犠牲を決して無駄にはせず、お家の再興を果たしています。

その祖先の伝承を代々受け継ぎ、菊池家子孫として菊池家の歴史をお伝えできますことは、大変に、嬉しく、有り難いことであります。菊池家は、嫡流、庶流はもとより他家をも巻き込んで、惣領の座を奪い合いました。祖先が歴史の中にこのような姿をさらしたことは、非常に残念ですが、、、、。それは、、、戦国の弓箭の家に生まれた者の、歩むべき宿命でもあったのかも知れません。
わが嫡流家は、武重が1338年暮れに消息を断ってから現在まで、一度も歴史上に現れることなく、静かに山奥に隠棲していました。その間、、、歴史は無常にも武重死亡説やお墓まで用意して嫡流家滅亡、子孫断絶と致しました。しかし、これまで幾多の栄枯盛衰を繰り返しながらも、決して滅びることなくその血脈を代々守ってまいりました。その間、676年の歴史と我が家の栄枯盛衰の起伏を考えると感無量です。
私は菊池家の真の歴史をお伝えすることが、子孫の責務であり、祖先への最大の供養と考え「忠誠の菊池一族」のHPを公開致しました。ご理解いただければ、大変有り難く存じます。尚、菊池家の真の歴史についても、多くの皆様方のご参加とご協力を頂きながら、解明を進めることができれば、大変に有り難いと考えています。どうぞ、お気軽にメールをください。
ご協力をよろしくお願い申し上げます。

菊池家 当主 菊池武肇


兵の碑
「菊栄えや 兵どもが 夢の跡 今は昔の 嗚呼忠誠」

鞠智から藤原そして菊池の姓へ
奈良東大寺の「奴婢帖」の中の「天平勝宝元年(西暦749年)大宅朝臣可是麻呂賎解」に、肥後の住人右京四条坊戸主鞠智足人(きくちたるひと)云々と記されているそうです。このことから、天平時代には、すでに肥後の鞠智の姓が認識されています。その後、平安時代に鞠智の姓は菊池へと改められたそうです。寛仁3年(西暦1019年)に、大宰府権師藤原隆家の下で鞠智蔵規(政則)が、藤原隆家と共に刀伊の入冠を撃退しました。その恩賞として、藤原の姓を隆家より賜り、藤原姓を名乗ったのでしょう。当時の藤原一族は、繁栄の絶頂期でしたから、それにあやかろうとした政則の想いがあったのかも知れません。その政則の嫡男藤原則隆は、延久2年(西暦1070年)肥後の菊池郡深川に居を構え、元々の鞠智(菊池)の姓を名乗り、菊池家の初代となりました。これが、「平安期に鞠智から菊池に変わった」と、伝えられているのかも知れません。
一、菊池家の出自
菊池家の出自を藤原氏系図で再検証すると
「藤原家の家系図に、隆家の子としても孫としても藤原蔵規は存在しない。」
と、言うことが判明いたしました。
「菊池武朝申状」や「大日本史」、「菊池風土記」、もちろん我が家の伝承にも、祖先は、藤原氏であり菊池家はその子孫であるとされてきました。菊池家は藤原氏の出であることを、大きな誇りとしていたことは歴史上明らかです。しかし、私の調べた結果、史実に忠実であると思われる多くの藤原系図には、藤原隆家の子藤原蔵規(政則)は見当たりませんでした。また、藤原蔵規は藤原隆家の子経輔の子であり、隆家の孫であるとする説もありますが、藤原隆家(979年生まれー1044年没)の子の藤原経輔は、1006年生まれで1081年の没、となっています。藤原経輔の子が藤原蔵規(政則)だとすれば、当時の結婚年齢を15歳から16歳と仮定すると、経輔は1021年から1022年に結婚したことになりますので、蔵規(政則)は1022年から1023年以降に生まれたことになります。藤原蔵規は、藤原隆家とともに1019年の刀伊の入管においてこれを撃退致しましたが、もしも、藤原蔵規が藤原経輔の子であれば、蔵規(政則)は、この時にはまだ生まれてもいませんから、藤原隆家と共にこれを撃退することは、時間的に不可能でしょう。つまり、蔵規(政則)は、藤原隆家の子でなければ年代的には、多いに無理があります。しかし、藤原一族の系図の藤原隆家の子に、藤原蔵規(政則)の記述はありませんし、藤原蔵規(政則)が藤原家の誰の子であるのか、、?についても記述は見当たりません。蔵規が藤原氏を名乗ったのは確かですが、藤原隆家との血脈はまったく見出せませんから、藤原氏の子孫であることを自称したと言うことになります。
二、
藤原氏と菊池家の家紋の関連は、どうか、、、?
家紋は、家系を調査する大きな手がかりであり、通常、同族であれば関連のある家紋を持っています。しかし、藤原氏由来の家紋と菊池家の家紋に、関連性を全く見出すことができません。通常、家紋は同族であれば類似性を持っていますので、そのルーツの証となるのです。藤原家と菊池家の家紋には全く関連性がなく、家紋から両家の接点を見つけることも不可能ですから、藤原氏の子孫ではありません。
三、
「熊本教委が7世紀後半の鞠智(菊池)城跡を発掘調査」
平成20年11月04日付けの新聞によると、熊本県教委は、「鞠智城跡の発掘調査で青銅製の菩薩立像を発見した。」と発表したそうです。それによると、出土した仏像は、脚の下の台座に固定するためのほぞがあり、厨子などに固定して礼拝に使用したものと思われています。全長が12.7cmの菩薩立像で、姿、顔立ちなどから、朝鮮半島の古代国家百済で七世紀後半に造られたのは、確実と見られています。最初、私はこの仏像の形状から千手観音菩薩像と思いましたが、その後の熊本県教委で精査の結果観音菩薩像と判明致しました。菊池家のかつての氏寺輪足山東福寺の本尊は千手観音菩薩であり平安時代の行基の作とされていますし、また、わが菊池家にも伝来の千手観音菩薩像があります。千手観音菩薩像が鞠智城から発見されれば、輪足山東福寺やわが菊池家にも存在した事で、菊池家の出自が、鞠智城にも連なりその関連を証明できると思いましたが、、、、残念でした。
四、
菊池家伝来の仏像と鞠智城跡から出土した仏像の比較
下左と下中は、わが菊池家に伝わる千手観音菩薩像(全長3.6cm)です。形状から天平時代の仏像の特徴が表れているので、百済からもたらされた仏像より製造年代が遅れるものだろうと考えられます。下右は、鞠智城跡から出土した百済由来の仏像ですが、この仏像は、残念ながら千手観音菩薩像ではありませんでした。

菊池家の千手観音菩薩(左は正面、中は側面)右は百済由来の観音菩薩(正面、側面)
左の仏像(菊池家由来)は、頭部に大きなかぶり物をのせていますが、右の仏像(百済由来)のかぶり物は、少し小さいように見えます。顔は両方の仏像共に丸顔で、目は細く口元は大きな口をあけて笑っているように見えます。腕の動きは、右の百済由来の仏像は、地中に長い間埋もれていたため腐食が進みましたが、胸の前で手を合わせているように見えましたし、下の腕には宝鉢を抱き、両方とも千手観音特有の形状をしているようにも見えました。宝鉢の下の逆三角形の突起もそっくりでしたから、右の百済由来の仏像は、体に何本もある千手観音特有の手の部分が欠け落ちていると考えました。しかし、手を合わせている高さが低いので、やはり、間違いかもしれません。
五、
菊池家と千手観音の関連性
菊池家には、かつて輪足山東福寺と言う氏寺がありました。朱雀天皇の時代の天慶元年(938年)に建立されたお寺で、武重の時代までは菊池嫡流家の氏寺でした。このお寺のご本尊が千手観音菩薩であることや、わが菊池家の氏神十二所神社の本地仏も千手観音菩薩ですから、我が菊池家の仏壇にこの千手観音があったのは、全くの偶然ではありません。菊池家の千手観音菩薩は、武重が氏寺の本尊を持って東国の地に活路を開いた証でしょう。このお寺には、武重の父上武時や武時の弟など菊池家の先祖のお墓も多くあります。文化十三年(1816年)に建てられた武重のお墓もこの寺の向いの離れた所にあります。このお墓は、「菊池軍記」に「武重の死去年月日は不明なり。」とある通り、消息不明の武重を憐れみ東福寺の当時の住職が江戸後期の文化十三年(1816年)、今から183年前に石碑を建立したそうです。菊池家は、藤原蔵規(政則)が藤原隆家の子であると主張して藤原姓を名乗りましたが、本来の姓は鞠智(菊池)だったのでしょう。わが菊池家の仏像は、厳かな様子と立ち姿、体側の両側の部分の突起(何本もの手をデフォルメしている)など、小さな千手観音菩薩ですが、細工が細やかで美しく、すばらしいものです。風雨にさらされることなく、大事に守り伝えられ、当時の形状をそのままに伝えています。初代則隆は、鞠智(菊池)家の出自に誇りを待ち、藤原姓への改姓をすべきではないと考えたのでしょう。私は菊池家末裔として、則隆の決断を誇りに思います。歴史は、時間と共に薄く淡いものに変じ、判別が付きにくくなります。しかし、時には、霧の中から姿をあらわすことがあります。想像を絶する長い年月の春夏秋冬を繰り返し苦難を乗り越え、指の先ほどの小さな仏像が、わが菊池家の歴史を守り伝えてくれたこと、まさに感無量です。菊池家の歴史を物語る家宝として、血脈の続く限り、末永く伝えたいと思います。

狗古智卑狗(鞠智日子)と菊池家
中国古代の歴史書、魏志倭人伝によれば
卑弥呼が魏への朝貢を求め、正使難升米、次使都市牛利らを帯方郡に派遣したのが西暦239年六月、
その年の十二月、卑弥呼は「親魏倭王」の称号と金印・紫綬・鏡など拝領します。西暦243年に第二回の使者が派遣され、西暦247年卑弥呼は狗奴国の抗争に対する援助を求めましたが、狗奴国との戦いで西暦248年に卑弥呼が没すると倭国は乱れました。その跡を継いで、十三歳の少女台与(壱与)が邪馬台国女王に擁立され、その後、倭国の戦乱は収まったとされています。
狗古智卑狗、鞠智城、鞠智、菊池家の関係は、、、?
魏志倭人伝に登場する狗奴は、狗奴(クナ)と読みますが、中国(魏の国)では、球磨(クマ)国を狗奴(クナ)と記したのかも知れません。魏志倭人伝に、日本人として記録の残る最古の名前として、狗奴国の官(将軍)である狗古智卑狗(ククチヒコ=鞠智日子?)が記されています。この狗奴国の狗古智卑狗(クコチヒク=鞠智日子?)と鞠智一族や鞠智城との関連、西暦240年代に邪馬台国の卑弥呼と戦った狗奴国の狗古智卑狗は、菊池家の祖先なのか、どうか、、、?これは、菊池家の夢を大きく膨らませるものと思います。


隠れて菊池嫡流を継ぐ
十四代の武士、十五代乙阿迦丸で、九州肥後に菊池嫡流家は絶えました。南北朝期に、勤皇精神を一筋に貫いた類まれな「忠誠の一族」とされ、明治天皇も「菊池一族は日本一の忠臣である」とのお言葉を、明治の儒学者、元田 永孚氏(もとだ ながざね)氏に残しております。このお言葉は、一族の誇りであり我が家の宝です。すでに六百六十数年前に九州から姿を消し、世間から忘れ去られた菊池嫡流は公にはすでに消滅したものとされています。しかし、菊池武重の子孫とされる我が菊池家は、常陸の国に移住し、細々と嫡流の血を継いでまいりました。九州から遠く離れた常陸の僻地に身を隠し、帰農したものと思われます。我が家の伝承と遺物により、菊池嫡流の存在をお知らせするのが、菊池家の継承者の責務であり、菊池家代々の強い御心と思います。

公爵一條実孝公の書「誠忠」

昭和の初期、元内閣総理大臣林銑十郎閣下と公爵一條実孝公が菊池家を訪れた際、二人は仏壇に香を供え、公爵一條実孝公は、菊池家祖先へ敬意を表す「忠誠」の書を揮毫したと伝えられています。我が家を訪れた公爵は、藤原北家の血を引く子孫の一人として、同じく藤原北家の子孫でもあるとされていた我が家の仏壇に香を供え、菊池家代々の冥福を祈ったのだろうと思われます。
(その当時、「菊池家は藤原氏の子孫である。」とされていたのですから、、、、。)
「公爵一條実孝公」(西暦1880年-西暦1959年)は、
藤原北家摂関家九條流で鎌倉時代の公家九條道家の三男で一条実経を祖とする一条家の元当主、
海軍大佐、貴族院議員、大政翼賛会興亜総本部協力会議議長、右翼総裁などを歴任、書の達人としても高名。
「元内閣総理大臣林銑十郎閣下」(西暦1876年-西暦1943年)は、
石川県金沢市に旧加賀藩士の子として生まれ、1894(明治27)年、士官候補生となり陸軍士官学校に入校。1897年(明治30年)6月28日、少尉任官、歩兵第7連隊付、1903(明治36)年、陸軍大学校を卒業する。1905(明治38)年に勃発した日露戦争に従軍し、旅順攻撃に参加。その後、陸軍大学校校長、近衛師団長、朝鮮軍司令官、陸軍大将、陸軍大臣、1937年(昭和12年)、内閣総理大臣を歴任。正二位、勲一等、功四級。


延寿国村作の短刀(鎧通し)菊池槍



菊池武重は、日本で初めてとなる槍を発明しました。
菊池武重は、「箱根竹下の戦い」で菊池勢の形勢が不利と見るや、この短刀(鎧通し)を約六尺の青竹の先端に取り付けるよう命じ、全員に槍ぶすまを組んで戦わせるせる戦法で足利勢を蹴散らし、菊池勢は形勢を逆転、この危機を乗り越えました。これが、日本における槍の始まりと言われ、
後年この槍ぶすまが千本もあったとされ「菊池千本槍」として語り継がれています。これを契機に菊池槍と呼ばれる茎の長い槍が、菊池家のお抱え刀職人である延寿国村によって造られ、それまでの刀や長刀などの打ち切ると言う戦法から、槍によって突き刺すと言うさらに効果的な戦法へと戦の進化をもたらしました。延寿国村は、その功績によって武重より菊池の苗字を与えられ、後に菊池延寿と名乗り代々菊池家のお抱え刀職人として菊池家に大きな貢献をしました。


「菊池魂」
<<<<<<菊池武時は、一命を賭して菊池魂を残した>>>>>>
元弘三年旧三月十三日早朝、菊池武時は後醍醐帝の綸旨を携え、九州探題に討ち入りをしました。
心中には、朝家への厚き忠誠と一族の熱き魂を秘めていました、、、この熱き魂が、菊池魂です
(菊池魂とは、死を覚悟で物事に対峙する菊池一族の強い伝統精神(遺伝的な性格?)のこと)
この戦いによって、武時は破れ、一族郎党150名と共に戦死いたしました。しかし、武時の九州探題への討ち入りは、菊池魂を世間や一族の心に見事に焼き付けたのでした。その後、菊池家への恩賞について、楠正成公の後醍醐帝への進言もあり、菊池家は肥後、備前、対馬の三カ国の国司を朝廷より任ぜられ、ひとまず菊池家の滅亡の危機は救われました。これを期に、菊池一族の朝家に対する忠誠心はさらに強くなりました。「忠誠の菊池一族」の所以は、ここにあったのかも知れません。また、楠正成公に、特段の配慮を賜ったことで、楠正成公と菊池家との絆がより強くなりました。我が菊池家の替え紋は、「丸に菊水」ですが、これは、楠正成公へのご恩と強い絆を表すものとして、武重の時より使い始めたものと思われます。
「正道の精神」
<<<<<<菊池武重の制定した「菊池家憲」の最後には、>>>>>>
「家門正方と共に龍華の暁に及ばん事を念願すべし、謹んで八幡大菩薩の明照を仰ぎ奉る」
と記されています。その意味するところはは、「菊池一族は正道を歩むことによって発展し、あたかも竜華樹のように、大きな一族として繁栄する日の来ることを念願しなさい。」と、言うものです。武重は、この頃、一族や家臣団の不穏な動きを察し、「このままでは、一族の統制が乱れ一族の存亡にかかわる争いに発展する」と懸念していました。この動きを沈静化させるために、武重は菊池家憲を制定したのだろうと思います。この家憲「寄り合い衆の内談のこと」を制定することにによって、「一族間の争いを未然に防ぎ、民主的に一族を統制する政治システムを構築しようとしたのではないのか?」と、私は考えています。しかし、南北朝時代の「下克上もいとわず」、という厳しい時代背景の中では、この願いもかなわず、一族の意見を統一して、一族の力を結集させようとした武重の計画は打ち破られ、自分の制定した「菊池家憲」によって都合よく民主的に失脚させられてしまいました。後継には、嫡流家最年少の弟武士を十四代菊池家惣領に指名しましたが、それからしばらくして、家督は、菊池家最大の盟友家である阿蘇家の娘を妻とした庶子家の豊田十郎武光に移って行ったのでした。武光は、阿蘇家とその家臣団の強い後ろ盾と自分自身のカリスマ性によって、嫡流家の縁者を一掃し、豊田家は、庶流であるにも関わらず菊池家の嫡流であるがごとくに、豊田十郎武光を菊池次郎武光と改め、菊池家十五代惣領となったのです。この騒動で、失脚させられた武重や武士、武重の兄弟や子孫などの菊池家嫡流家やその家臣団は、九州から遠く離れて、海路で東国へと逃れざるを得なかったのでしょう。関東以北には、菊池や菊地を冠する多くの人々が現在も代をつないでいます。これらの菊池氏の家紋には、「丸に違い鷹の羽」の紋が圧倒的に多いので嫡流の縁者と思われます。
<<<<<<菊池武茂起請分にも、>>>>>>
「武茂弓箭の家に生まれて、朝家に仕ふる身たる間、天道に応じて正直の理を以て、
家の名をあげ、朝恩に浴して身を立せんことは、三宝の御ゆるされをかうぶるべく候。その外私の名聞己欲のために義をわすれ恥をかへりみず、当世にへつらへる武士の心をながく離るべく候、、云々。」とあります
武重の弟、武茂の心の中の「忠誠心と正道精神」が、今の世に生きる私の心にも熱く伝わって参ります。そして、今も菊池魂と正道の精神は祖先から代々受け継がれています。しかし、長い歴史の中では、私利私欲に走った者もあり、、、、残念です、、、、、。当時の厳しい時代背景を考えれば、、、、、どうでしょうか?正常な判断力をも失うほどの状態であったことを考えると、やむをえなかったのだろうと同情します。今となっては、これをご容赦願うより他にないと思います。一族は、いつまでも菊池魂と正道の精神を忘れず、祖先の教えを尊ぶ心を持ち、祖先の念じた「家門正方と共に龍華の暁」を求めんことを、切に祈念いたします。


「龍 華 樹 の 模 様」
(りゅうげじゅ)


写真の金具は、「菊池家憲」と関連のある図案として作られたものなのかどうか?
また、龍が花のようなもの(百宝?)を吐き出している姿なのか?龍のつかまっている樹が、龍華樹なのか?これは、仏教の想像上の大木である龍華樹なのか?「菊池家憲」と関係があるものなのか? ないのか? など、疑問が残りますが、菊池武重の子孫である我が家に残るものなので、私は龍華樹を表していると考えています。
**********仏教用語としての龍華樹とは?**********
「弥勒菩薩の菩提樹である龍華樹は、高さ広さ共に四十里、青梅のような実をつけると言う。
このため、龍が百宝を吐く姿になぞらえてこの名がついたと言われています。 この金具には、菊池武重の念じた竜華樹が彫られていますから、その子孫の証となるものです。約660年前に、テレビやインターネットがあったわけではありませんから、武重以外の誰かがこの模様を知り得ることはなく、武重以外の者が考案したものでもありません。これは、「武重の精神を子孫が決して忘れることのないように」と、武重の指示で造られたものだと思います。200年前の火災の後も「銀製のこの金具」は燃えずに残ったのでしょう、それを再使用したのだと思います。

菊池家の家督争い
九州一の名族菊池家は、それゆえに、家督をめくる争いも激しく凄まじかった。
このため、十二代武時の描いていた嫡流家の嫡子による家督相続は、結局、継続ができなかったのである。父武時から家督を託された十三代武重は、遺言の惣領制の維持を最優先に考えた。家臣団の不満を解消するために、家臣の意見を取り上げる「寄り合い衆の内談のこと」を制定したのである。しかし、これは惣領制の維持のためには全く効果がないばかりか、さらに家臣団の言いたい放題になった。これでは、武重とて、「とてもやっていられない。」の状態になったのだと思います。惣領制の維持をするために制定した「寄り合い衆の内談のこと」によって、皮肉ではあるが、武重は惣領の座を追われたことになる。その後、身の危険を察知した武重は、自ら消息を絶ち常陸の国に活路を開いたと思われます。十四代武士は、武重と同腹の末弟であったが、惣領の器量はなく、すぐに惣領の座を追われることになる。阿蘇家の娘を正室に迎えた豊田十郎は、庶流でありながらもすぐれた人物であったのかもしれないが、武士を廃して惣領の座を奪ったのである。しかし、嫡流家以外の者が惣領になるのには抵抗するものも多く、正式に惣領になるのには、ずいぶんと時間を要したようである。庶流と言っても、実際は武光の血脈は疑わしく、菊池家以外の四家が家督を継承したことになる。




「嫡流VS嫡流の戦い」
甲斐氏(家紋は「丸に違い鷹の羽」)
元弘の役に活躍した十代菊池武房の子武本は、兄の隆盛亡き後、家督をめぐり隆盛の嫡男で甥の十一代時隆と争いましたが、鎌倉幕府の評定に不満を抱き時隆を殺害し、武本自身は自害して果てました。その後、武本の嫡子武村は、甲斐国都留郡に逃亡し居を構えて住しました。武村の子重村の時に、鎌倉幕府は滅亡し、南北朝の騒乱時代が始まりましたが、重村は、足利尊氏に属して九州に戻り、甲斐の国にちなんで甲斐氏を名乗り足利氏と共に武家方として行動をしました。1338年には、重村は大友氏と共に祖先の地である肥後に進出しましたが、南朝雄の菊池武重に敗れて日向に逃れ土着しました。今も日向の高千穂地方には甲斐を名乗るものが多いといわれ、甲斐氏の末裔と思われます。
「嫡流VS庶流の戦い」
消息が不明とされた武重は、、、、?
武重は、1338年の暮れ以降は消息が不明とされています。しかし、その頃は東国に逃れて、九州にはいなかったのでそのように伝承されたのだと思います。一族の惣領の地位を追われ、隠れるように生きねばならなかったのでしょう。その後、菊池家が残した「菊池家譜」には、、、、、。武重は、1333年4月27日(元弘3年3月13日/正慶2年3月13日、博多で42歳の時に討ち死にをしたとされています。そして、その法名は「言盆真空寂阿大居士」となっています。この1333年3月13日と言うのは、武重の父、武時が後醍醐天皇の綸旨を携えて、博多の九州探題を攻撃し、武時が討ち死にした日です。この日、武重は惣領として一族を率いていくように、父に諭され肥後に戻っています「これが有名な袖ヶ浦の別れ」と言われ、今でも語り継がれています。しかも、武重の法名と言われているのは、父武時の法名なのです。これは、まさに創作したデタラメ話なのです。菊池家譜とし創作した都合の良い歴史を、あたかも真実のように世に残すとは、本当に情けないことです。私は、菊池家の子孫として、これを非常に恥ずかしく思います。このデタラメな創作家譜を残した、武重なき跡の菊池家は、、、、、?この家譜は、武光の命令で書いたものと思いますが、なぜ、このような作り話を残さなければならなかったのかと考えれば、庶子が嫡流家惣領を追い出して跡を継いでいるのですから、当時にしても世間体は実に良くないのです。これを払拭するには、武光が菊池家の正当な後継者と世間に認められる必要があったのでしょう。つまり、武光にとっては、武重と武時が同一人物で博多で戦死したのは、自分の父親であり、自分は惣領家の武重の嫡子であり、自分はその嫡男であると言うことを残す必要があったのでしょう。その証拠に、武光は、嫡流家の嫡男の名乗る次郎を名乗っています。また、巷の歴史に残る情報には、、、、、?武重は、1338年に病死、または戦死と伝えられ、死因についても実にあいまいです。これは、武重が九州をのがれて東国に移住したのでそれ以来、九州にその姿をみることがなく、世間では、病死か戦死をしたのだろうと言うことで、自然に流布され歴史に残ったのではないかと思います。消息不明なのに、武重のお墓があることも変です、、、、?しかし、武重の正式なお墓は、存在していませんし、そのお墓といわれるところも数箇所あります。歓喜院と言うお寺のあったところに、武重のお墓とされるところがあります。武重は僧となってこのお寺で暮らしていたと、武重の墓を造った住職は言っていたそうですが、消息不明なのですからありえません。これは、歓喜院の住職がお寺を盛り立てようとして、武重のお墓を造ったようです。九州で亡くなったのであれば、武重のお墓は曹洞宗の大智禅師が開いた聖護寺にあるはずです。武重の恩師としても有名で、武重が消息を絶つ4ヶ月前に作成した「寄り合い衆の内段の事」は、大智禅師の教えによって書かれたものとされているからです。そのような師弟関係にある恩師の聖護寺に、武重のお墓がないのは本当に不自然です。
というのは、武重は九州でなくなっていないからなのでしょう。
1338年の11月以降の消息については、、、、、
歴史上は、確かな情報はなく、何一つはっきりしていないのです。1338年の7月に武重が、「寄り合い衆の内談の事」を制定してから、わずか数ヶ月の間に、惣領の座が嫡流家最年少の弟である又次郎武士に移っていることに着目をすると。豊田武光を担ぐ阿蘇家や庶流の存在が見えてきます。
阿蘇家の娘を妻にした武光を中心とする庶流派の力が強まり、武重を惣領の座から引きずり落とし、その地位を剥奪し、武光を惣領に据えようとしたと推測されます。
「寄り合い衆の内談の事」には、
「武重すぐれたる議を出すと云うとも管領以下の内談衆一統せずば武重が議を捨てられるべし」
とあります。惣領解任の議が出て「武重は、惣領を辞すべきである」と寄り合い衆の意見がまとまれば、惣領の武重といえども、これに従わなければならなかったのです。1338年7月に、この「寄り合い衆の内談の事」を制定して、4ヵ月後の1338年11月を最後に、歴史の表舞台から姿を消したのですから、自分の制定した「寄り合い衆の内談の事」によって、武重は、惣領の座を追われたと言う可能性も多いにあります。
寄り合い衆の意見は、
しかし、当初は庶流の武光に、菊池家の惣領を継がせるのに反対の意見もあり、とりあえず、嫡流家の武重の弟の武士をひとまず惣領にすえて、様子を伺ったのだろうと思います。武士の器量は、あまり芳しくなかったので、これは武光にとっても良い選択であったのです。結果的に、器量なしの武士を追放して武光が惣領の座を奪ったのでした。惣領制とは、宗家の嫡男が跡を継ぐこと、、、当時の惣領制では、惣領家の嫡男が後継者になると決まっていたのですから、庶流家から惣領となることは、武力や策略を使って以外には、決してありえないのです。最初は、庶流の出であるなどの理由で一族から反対意見もあり、武光は、すぐに惣領になれなかったようです。
なぜ、嫡流は東国にのがれたのか、、、、?
武光は、庶流の者を重用し嫡流を排除したため、生活の基盤を失った嫡流は、逃れるように東国に活路を求めたのでしょう。このようにして、武光は嫡流及びその子孫を九州から一掃したのです。
「庶流VS他家の戦い」
菊池家は、応仁の乱の後、一族や家臣の下克上に苦しめられ衰退色を濃くしていました。その頃、これを好機と見た、阿蘇大宮司の阿蘇惟長は、菊池家から肥後守護職を奪おうと計画し、豊後の大友義長と菊池氏家臣団に働きかけを致しました。これに応じた菊池氏家臣団22名は、永正2年(1505年)二十三代菊池政隆を廃し、阿蘇大宮司の阿蘇惟長を菊池の家惣領として迎える記請文を提出しました。しかし、惣領の政隆を擁護する家臣も多くこれに抵抗したので、惟長は大友義長の応援で肥後の隈府城を攻め落としました。政隆は、隈府城から逃亡したので、惟長は阿蘇大宮司職を弟の惟豊に譲り、自分は、二十四代菊池武経を名乗り菊池家当主となりました。しかし、武経は大友氏や家臣団の横暴には耐え切れませんでした。そして、また、菊池家の惣領としての力を発揮することもできないままに、永正八年、菊池家家督を投げ出して逃亡してしまいました。このため、菊池家の重臣らは、菊池庶流の託摩氏から武包を菊池家二十五代惣領として迎えました。菊池家は、こうして重臣らの思いのままに惣領が挿げ替えられると言う状態にまで、衰退してしまいました。しかし、この裏で菊池家重臣らを意のままに動かしていたのは、阿蘇大宮司を菊池家惣領に祭り上げ、そして、引き摺り下ろした大友氏でした。永正十五年、大友義鑑は菊池家重臣らを動かし武包を失脚させ、代わりに弟の大友重治を、菊池義武と名乗らせ菊池家二十六代惣領として送り込みました。
「他家VS他家の戦い」
しかし、菊池家の家督を継いだ義武は、次第に大友氏から離れ自立の動きを見せましたが、菊池家の重臣らは、これに同調せず義武は肥後から逃亡して備前の有馬氏を頼りました。その後、肥後の守護職となったのは、兄の大友義鑑でした。義武は、その後も肥後への復帰を試みましたが、天文二十三年(1544年)、甥の大友義鎮の意を受けた相良氏に攻められ、義武は自害して果てました。肥後菊池家は、最後には血縁のないまでに変質しながらも、二十六代を重ねてまいりました。しかし、この時をもって、武家集団としての肥後菊池家は、永遠に消滅したのです。

菊池武重の子孫として
約660年もの間、九州から遠く離れた常陸の山里に隠れ、息をひそめて静かに代を重ねてまいりました。我が家に残る切腹の間は、菊池家代々の精神を表すものと思います。現在は、旧宅から離れて暮らしていますが、同じ市内ですから毎日旧宅の様子を見に行っています。私は、父の代からの自営業を継いでいますが、長男は企業に勤務をしています。長男には、菊池家の継承を教育しているのですが、どのようなことになるのか少々不安です。父の代までは、菊池家惣領はどこにも勤めませんでした。帰農してからずっと、奉公人を置いて農業や林業などで生計を立てていたようです。
江戸後期には、植物油の製造販売などをしていたようで、菊池油店の印も残っています。私はサラリーマンの経験しましたが、大変良い勉強となりました。今の世は、価値観が大きく変わりましたので、長男には、サラリーマンでも跡をついでも自由で良いと言っています。但し、祖先からの伝承と伝統の継承は、絶対に忘れないで欲しいと思います。私は、このホームページを書くことで、祖先の生き様を振り返りその真の姿に触れ、「菊池家の嫡流が、今もここに断絶せずに継続している。」と、ささやかな狼煙(のろし)を上げる事ができてうれしく思います。。
菊池家の切腹の間

(敷居の奥が四畳の間となっています)
我が家には、四畳の間(切腹の間)があります。古くから、いざ、その時は、、、、と、切腹の準備をしていたものと思っています。(約200年前の火災の後に新築した後にもこの四畳の間が復元されて現在に至っています。)菊池家の歴史が、これほどまでに過酷なものであったのかと考えさせられます。仮想の敵は、菊池家の庶家であり家督を狙うもの(つまり当主の首を狙うもの)であったのだろうと思います。今になって考えると、由緒を意味するものを、奪われることを恐れての事であったのではないかと思います。奪われる前に自害をすれば、その在り処は消えてしまうから奪われずに済むと考えたのでしょう。昔から菊池家には、特別な何かがあると伝えられていましたが、
それがいったい何であるのか、誰にも知る由はありませんでした。金銀でも隠してあるのかと、いろいろ探したそうですが見つからなかったそうです。その後、茅葺の家を改築をしたとき、屋根裏にあった古い俵の中のお札を燃やしたところ、灰の中からサイコロ状の金塊が出てそれを誰かが拾って運んだのを母が見ていたそうですが、バケツに半分くらいあったそうです。母は、誰が盗ったのか見ていますので、そのことを私も聞いていますが、今は私の胸にしまって置こうと思います。しかし、その金塊でも菊池家の本当の宝ではありませんでした。菊池家の真の宝は、菊池家の由緒を伝える前述の仏像であったのかもしれない思います。これは、いかなるものを持ってしても替え難い、菊池家の真の宝なのかも知れません。菊池家は、狗古智卑狗の子孫なのかどうかは不明ですが、少なくとも鞠智城の築城期と同時期に作られた仏像は、菊池家の一番の宝として、菊池家の由緒を守り伝えてくれました。私の子供の頃には、「男には、家の戸を開けると七人の敵がいる」と、良く祖母が話していましたが、男は一歩家を出れば、細心の注意を払って行動し対処するようにとの教えではないかと思っています。菊池家が、代々守り続けた由緒と菊池魂は、この切腹の間によって明らかと言えます
我が菊池家の伝承
我が菊池家の伝承には、元々の祖先(太祖)は京の藤原氏とあります。(私は幼少時に、このことを祖父の弟八郎からも聞いています)。菊池家は、藤原家の末裔であり、初代の則隆より藤原氏の出であることを、家の血筋の誇りとしてまいりました。最近になってなぜかこれに異を唱えるものもあるようですが、他家のことに干渉は無用ではないかと思っていました。しかし、藤原家の系図には、藤原蔵視(政則)なる人物の見当たらないことと、時代考証による年代的な誤りなどから藤原氏後裔説に矛盾が感じられていたのですが、最近、九州鞠智城跡から発掘された観音菩薩像が、菊池家に伝わる仏像と非常に似ていることから、私は、鞠智城に由来する鞠智一族の後裔であると考えています。訂正しお詫びを申し上げます。我が家には、藤原家や菊池家と直接的に結びつくような系図や資料類は少なく、古くから伝承される家伝、家例、家紋、正月飾り、伝統の食物、伝統行事、わずかな資料などによって、菊池武重の末裔と判明いたしました。藤原家との縁は、約1000年も前のことですから、実情はわかりません。
歴史に残る菊池家の出自
菊池家縁起は、第十七代の菊池武朝は「武朝申し状」で、先祖は、藤原道隆でその四代目藤原則隆が肥後に定住するようになったと記しました。武朝の説は藤原道隆(関白)-隆家(中納言=大宰府権師)-政則(大宰少弐)-則隆(大宰府官吏-菊池家初代当主)と続いたとしています。関白藤原道隆の子隆家は、その頃勢力を強めた藤原道長によって、中央から追われ九州の大宰府の長官として赴任させられた(いわば左遷させられたと言っても良いでしょう)。政則(蔵規)と則隆父子は、隆家と相当深い関係のあったことは確かだとしても、直系の子孫であったとする武朝の説に、近年、疑問視する声も出ている。諸説ある中で、いずれも推定の域を出ないのが現状です。
私の推察
私は、蔵規(まさのり)は菊池の郡司でありながら、大宰府官として太宰府権師の藤原氏のもとで働いていたのだと思います。後に蔵視は、藤原氏と縁を持って藤原姓を名乗ったのであろうかとも考えています。つまり、蔵規は藤原家との縁組(藤原隆家の娘との結婚など)によって藤原の血脈を得たのかも知れません。しかし、菊池の豪族の菊池氏出身であったのは、言うまでもありません。


菊池家の歴史
(1)
延久二年(四年とする説もあるが)、藤原政則(蔵視)の子藤原則隆は、官職を辞して菊池郡の深川に館を構えて定住するようになりました。それから、姓を藤原から地名である菊池に改め、菊池則隆と名乗りました。菊池家初代の則隆が菊池郡に定住してから、経隆、経頼、経宗、経直と続き、
初代の菊池郡定住から百十年後の治承四年には、菊池一族は、六代隆直が率いる九州一強力な武士団として、大きく成長した姿を見せたのでした。しかし、それまでの百十年間の一族の歴史は、世に知られるような記録もなく不明です。その間、一族は武力によって自分の荘園を維持しながら、勢力を拡大していったたのであろうと想像しています。その頃は、武家の政権が誕生し、平氏と源氏という強力な武門の両雄は、日本の政治を取り仕切る武家組織の二大勢力となっていました。
源平合戦には、菊池一族もその時の政権である平家に対して、戦いを挑む強力な武士団として成長していました。六代隆直は、この源平合戦で源氏側で平家と戦いましたが、力及ばず平家に破れ降伏をしました。その後、平家側についた菊池一族は、壇ノ浦では源氏と戦い一族に多くの犠牲者を出しています。それ以来、我が菊池家は源氏の白旗を忌み嫌い、「白き生き物を家に置かぬように」と伝承してまいりました。以来、白い花は飾らず栽培もせず、白い色の動物も飼わぬよう、
祖先の残した言葉を家例として守ってまいりました。また、その他の理由としては、白馬のいた時に大火に遭い、それから白き色のものを忌み嫌ったとも伝承されています。菊池家は、源氏と源氏の白い旗の色をずっと長い間忌み嫌っていたのでしょう。
(2)
鎌倉幕府が成立し源氏の時代となっても、
菊池一族は、いつまでも源氏に対する反逆者とされ片身の狭い思いをしていました。しかし、九州を代表する有力な武士団としての実力はいささかの衰えもなく、その力を存分に維持していたようです。その後の約百年間は、菊池一族として特に目だった記録はありません。その後、菊池一族が世に再び登場するのは、蒙古襲来の時の十代菊池武房の歴史に残るめざましい活躍です。このときの武房の働きに対しては、朝廷から甲冑を賜ったのみで幕府からは、何の恩賞もなかったと言われています。これによって、菊池一族ならびに武房は、幕府への不満が次第に募り、反幕府への道を歩むことになります。その後、武房の嫡子隆盛が早世したため、その嫡子時隆が跡を継ぐものと見られていましたが、時隆の叔父武本は菊池家の家督をめぐり時隆と争い、鎌倉幕府の評定で敗訴したのにもかかわらず、甥の時隆を襲って殺害し自分は自害しました。その後、菊池家督は時隆の弟武時が、十二代を継いだのでした。後に武本の子孫は、甲斐氏を名乗り反菊池勢力として菊池一族に長い間反抗し続けたと言われています。
菊池武時、博多九州探題への討ち入り
元弘三年(1333年)三月十三日、十二代武時は後醍醐天皇の綸旨を携え、阿蘇神社大宮司阿蘇惟直と共に博多の九州探題の北条英時を攻めたましたが、わずかに手勢百五十騎では、勝ち目はありませんでした。また、少弐、大友氏らの裏切りもあって壊滅をしてしまいした。このとき、武時は、嫡子菊池武重を袖ヶ浦に招き、菊池一族の再興を諭して肥後に帰したと伝わっています。
(菊池武時、辞世の歌)

「ふるさとに 今宵ばかりの いのちとも 知らでや人の われを待つらむ

四十あまり 二とせまでは ながめ来ぬ はなやあるじと われを待つらむ」
                                           
(荒木栄司氏著「菊池一族の興亡」より)
と、辞世の句を自らの小袖を破って書き、武重に持たせて帰しました。このとき、菊池武時、わずか四十と二歳(42才)の命でした。武時が42歳で逝去したときに、武重はいったい何歳であったのか?と考えると、昔の結婚年齢は今よりも早かったと伝えられているので、元服前後の16歳で武時が結婚していたと仮定すれば、このとき武重は、25-26歳の青年になっていたであろうと推察できます。この日の博多九州探題への攻撃で、祖父武時と一緒に戦死したと伝えられている武重の嫡子松若丸は、前出の結婚年齢を武重に当てはめれば、10歳前後の元服前の子供であったと思われます。このとき豊田武光も10歳前後で同行していましたが、他の子供たちと共に肥後へ無事生還しています。武時は、家来に命じて子供たちを肥後に送り帰させたと伝えられているので、嫡流家の嫡子であり世継ぎの松若丸を戦死させるようなことは、決してなかったであろうと考えています。もちろん、武重も我が子である「松若丸」を残して、自分だけ肥後に帰ることなどありえないでしょう。武重と松若丸が、一緒に肥後に帰ったのかどうかは確認できませんが、松若丸は、肥後ではなく東国の誰か(もしかしたら、常陸の佐竹貞義公であるかもしれない、武重は鎌倉で佐竹氏と知己を得た可能性がある。)を頼って、家来が佐竹領内にかくまったのかも知れないとも考えられます。庶流家の武光は、嫡流の子孫がいない方が都合が良いので、松若丸が戦死をしたとされたのか、松若丸が九州に帰らなかったために、本当に松若丸が戦死をしたと思っていたのか、事実は良くわかりません。
太平記では「袖ヶ浦のわかれ」として有名な場面でもありますが、後年、面白く脚色され事実とはかけ離れた筋書きとなっているのかもしれません。この武時の命を懸けた活躍は、後に九州地方の南朝方をにわかに活気づかせ、その二ヶ月後九州探題の北条氏は南朝連合軍によって滅ぼされています。しかし、一家の大黒柱を失った菊池家は、存亡の危機にあえいでもいたのです。
(3)
菊池家を救った楠正成公
太平記によると
「その後、恩賞を伺いに京に上った菊池武重兄弟は、旧知の楠正成公と偶然にも京の街中で出会い、此度の戦で恩賞を得られそうにもないことを正成公に伝えると、「よし、わかった、あんずるな。」と、いって正成公は立ち去ったのですこの楠正成との縁が、菊池家の危機を救ってくれようとは、そのとき菊池家の誰もが想像さえもしえなかった。それから、御前会議に出席した正成公は、末席から大きな声で「恐れながら申し上げまする。此度の九州探題攻めにおいて、武門の棟梁中一命を落としたるもの、肥後の菊池武時公、ただ一人にござりまする。残されたものに、存分に厚き恩賞をお願い申し上げまする。」と、後醍醐天皇に直接、菊池家への恩賞を進言されたのです。後醍醐天皇は、御簾の影から「正成のいうとおりじゃ、菊池家には、恩賞を存分に厚くするように、よいな。」と述べられたと太平記にあります。この楠正成公の進言によって、恩賞として菊池家は、肥後、備前、対馬の三カ国の国司に任命され、菊池家存亡の危機は、ひとまず救われたのでした。この時、菊池家の危機を救ったのは、楠正成公であると言っても過言でなく、私の今があるのは、まさに楠正成公のおかでもあります。この正成公の計らいがなければ、菊池家はこのときすでに滅亡していたかも知れません。楠正成公へのご恩は、菊池家子々孫々まで、菊池家の続く限り伝承していかなければなりません。そして、子孫は、このご恩を決して忘れてはならないと思っています。
菊水の家紋
我が菊池家の家紋は、定紋に「丸に違い鷹の羽」替え紋に「丸に菊水」を使っています。
替え紋の菊水紋は、楠正成公へのご恩の気持ちを、菊池家が永遠に忘れないためにと、
菊池武重が用いるようになった家紋であろうと考えています。
(4)
血縁の絶えた武家集団としての菊池家
二十四代は阿蘇家から大宮司の阿蘇惟時(菊池次郎武経と改名し菊池家二十四代当主となる)が、
家臣団によって迎えられ、政隆は当主の座を追われています。その後、大友氏は武経を排除し、菊池武澄の子孫武包が二十五代菊池家当主となりますが、武包が没すると、その領地は大友氏に吸収され、家督は大友義長の二男義武(二十六代重冶)へと移り菊池氏は完全に大友氏に飲み込まれてしまいました。
(5)
武家集団としての菊池家の滅亡
このような栄枯盛衰を繰り返し、肥後菊池家の血脈はいつの間にか薄くなり、
血脈の断絶した肥後菊池家となり、肥後菊池家は歴史の表舞台から完全に消滅したのです。
では、菊池一族とそれを構成する縁者たちは、なぜ、惣領(嫡流)家への忠義を重要視していなかったのでしょうか、、、、?と考えると、嫡流家側の、一族支配に関する諸問題もあり、下克上の時代背景の中で、庶流家や家臣団の嫡流家離れが起きたのではないかと考えています。家督をめぐる争いは、他の一族でも見られたことで、当時の社会ではそれほど非難されるような問題ある行動とはされなかったのだと思います。

(6)
菊池家の血筋
しかし、肥後から遠く離れた地に菊池嫡流の血脈が静かに残り、家例を守り家訓を伝承していることに、我が祖先も安堵しているに違いありません。祖先及び一族に縁あるものの冥福を祈り、「忠誠の菊池一族」の真の姿を子々孫々に伝承し、末永くそれが継承されることを、ただ念願するばかりです。

(7)
菊池姓の由来
菊池初代の藤原則隆が菊池の郡に居を構え、菊池則隆と名乗り、以後、子孫は菊池氏と言われるようになりました。最近の研究によって、藤原姓は藤原隆家が藤原蔵視に与えたもので、七世紀後半の鞠智城に関連する鞠智(菊池)一族の後裔とする説が有力になっていましたが、今回の鞠智城跡の発掘で、鞠智一族の後裔であると判明致しました。菊池または菊地と書きますが、本来の意味はそれほど明確ではありません。元々は鞠智(菊池)という地名ですから、それほど大きな差異はないものです。後年、どちらが本家であるとかないとかの理由で、地域によってはこれを区別しているようですが、ほとんどの人は、菊池一族との血縁があるのかないのかもわからないままに、菊地や菊池の苗字を使っているのでしょう。それほどこの活字には、こだわることはないように私自身は思っています。苗字は、本来は家系を表すもので、川にたとえるなら本流、支流、があり、また別の川にも同様に流れがあります。しかし、家系を粉飾することで、自分を身分の高い歴史的な有名人の子孫としたいと願う人もいますから、なかなか単純ではありません、、、、、。昔は識字率も高くなかったので、活字の誤記に対しては、寛大であったのだろうと思います。知らないで書くのだから良いだろうと言う事で、そのままになっている文書類も多いように見受けられます。現在我々の郵便物の中には、この誤記であるものがかなりの割合で含まれています。私は、活字にこだわるより、菊池を冠する者はこの名を決して汚すことのないように、自分の行動に細心の注意を払うべきと思っています。

(8)
菊池家の家紋
「太田亮氏著の姓氏家系大辞典」には、下のようにあります。(菊池氏の紋章)元は日足の紋にて、大村、高木に同じ。隆直に至り、鷹の羽の紋とす、隆直出陣の時、霊鷹冑に止まり、羽毛二枚を落とす。故に取て吉端を視し揃い鷹の羽を紋とし、又、違い鷹の羽に改む(国史)と。又日う。、、。
とあります太田亮氏の説を取れば、「並び鷹の羽」から「違い鷹の羽」紋になったとされますので、私の見解とは異なっています。
私の見解では、、、、。
六代惣領の隆直の当時、菊池家が阿蘇神社の氏子でもあったので阿蘇神社の神紋「違い鷹の羽」を
菊池家の守り神として、菊池家の家紋にも取り入れたのであろうと推測しています。阿蘇神社の承諾を得て「違い鷹の羽」を家紋として丸を加えて使用したものと考えています。当時、菊池家は阿蘇神社の氏子でしたから、阿蘇神社の神紋を戦場に打ちたて、戦勝を祈願するために、家紋は阿蘇神社の神紋(「違い鷹の羽」)でなければならなかったのだと思います。後に阿蘇家と菊池家の旗印を見分けるために、菊池家は「丸に違い鷹の羽」を用いたのでしょう。その後、庶流の豊田武光が嫡流家と見分けるために「並び鷹の羽」を用いたものと思われます。つまり初代藤原則隆は「日足紋」 を用いましたが、六代隆直になって「日足紋」から 「違い鷹の羽紋」に替えました。その後、時代は定かではありませんが、「丸に違い鷹の羽」へと替えたものであろうと思います。史実によれば、庶流の豊田武光は、嫡流の菊池又次郎武士(十四代)を排除して菊池家に入り、嫡流家の嫡子の名乗る次郎の輩行名を付け菊池次郎武光と改名し、第十五代菊池家惣領の座に就いたのでした。武光は、後醍醐帝から下賜された「並び鷹の羽」の紋を用いたとされています。「違い鷹羽」から「並び鷹の羽」紋に替わったのは庶流の豊田武光の時からなのです。多分、菊池家は二番が吉兆をあらわすと信じていたのかも知れません。名前にそれまでの太郎ではなく、次郎をつけるようになりました。我が家では、焼印にも「山二」を使用していました。

(9)
栄枯盛衰
肥後菊池家の栄枯盛衰を、正確に記せば、菊池嫡流家は、十四代武士で絶え、菊池庶流豊田家は、二十三代政隆で絶え、阿蘇家から二十四代武経、菊池武澄の子孫二十五代武包、大友家から二十六代義武へと続き、二十六代義武で肥後の武家集団としての菊池家は、完全に滅亡しました。しかし、菊池家の子孫は、嫡流、庶流、支族が今も全国に四散し、代を重ねています。

(11)
現在の菊池家の家紋
代表家紋を、「並び鷹の羽」とする文献が多いのですが、庶流家の用いた家紋であれば「並び鷹の羽」であり嫡流家の用いた家紋であれば「丸に違い鷹の羽」です。また、これ以外にも菊池を冠する家の家紋には、多くのバリエーションがあります。家紋は、家の存在をあらわす紋様ですから、
同じ菊池を冠しても意見が対立すれば家紋を独自にするとか、血縁関係の違いで違う家紋を用いたり、同族同志が戦う時には家紋の違いで敵味方の判別をするために、家紋を変えなければなりませんでした。家紋や苗字が違うからといって菊池一族の血縁がないわけでもなく、家紋や苗字が同じだからと言っても、血縁があると断言できるわけでもないように思います。しかし、誰にでも祖先はあるのですから、子孫が祖先の真剣な生き様を思い、この世にあることに感謝をすれば、祖先のご苦労は報われるのでは、、、、。

(12)
家紋の由来の詳細
隆直の時代に、それまでの家紋の「日足紋」を「違い鷹の羽紋」に変えました。隆直が菊池家の氏神である阿蘇神社に参拝に行くと鷹の羽が舞い降りて、隆直は、これを氏神様の思し召しと考て、
阿蘇神社の神紋「違い鷹の羽」を菊池家の家紋とするようになったと伝えられています。この家紋入りの旗を戦場にたなびかせることで、阿蘇神社のご加護と菊池家の戦勝を祈念したのであろうと推測しています。したがって、神文の「違い鷹の羽」の紋でなければ、菊池家が家紋を変える意味はないのです。また、阿蘇神社の神紋を戦場に打ち立てることで、菊池勢の士気を昂める狙いもあったのでしょう。以後、阿蘇家と菊池家の紋を見分けるために、菊池家は「丸に違い鷹の羽」を家紋として用いました。「並び鷹の羽」が、家紋となったのは庶子家の豊田十郎武光からと伝えられています。そして、「並び鷹の羽」紋は、後醍醐天皇から豊田十郎武光に下賜された家紋であるとも伝えられています。竹崎季長の「蒙古襲来絵詞」には、「並び鷹の羽」の旗印を挙げた菊池武房が描かれていますが、これによって菊池家の家紋は「並び鷹の羽」であるとの根拠にしている文献もあります。しかし、この絵詞は後年何回にも渡って書き換えられていることを、念頭に置いて考察をしなければならないのです。
右の写真は、蒙古襲来絵詞の一部ですが、 これが、菊池家の家紋は「並び鷹の羽」であるとする説の根拠となっている唯一のものです。しかし、写真には、鷹の羽の縞模様が、一本多いのにお気づきでしょうか、家紋は命と同じように大事に取り扱うべきものであり、古来より特別に大切にあつかわれてきたものです。(もしも、家紋の図柄を間違えれば書いたものは処罰され命を取られていたと思います)いかなる理由があろうと、家紋を描く際に間違えることがあってはならないし、家紋を知っている人が描くのであれば、絶対に間違うことはあり得ないのです。つまり、これは、菊池家の「鷹の羽」紋を知っている人の描いた絵や家紋ではなく、この時代の菊池家は「鷹の羽」を家紋にしているというので、想像で描いていると言えるのではないかと思います。この時代よりも、後になってから後醍醐天皇より豊田十郎武光に下賜された「並び鷹の羽」紋を、菊池武房の時代の文永、弘安の役に使えるはずがないのです。菊池家を祖とする多くの家は、「丸に違い鷹の羽」を家紋としています。菊池家が古くから家紋としている証拠に、菊池を冠する家の家紋は、「丸に違い鷹の羽」紋のほうが圧倒的に多いのです。これに対して「並び鷹の羽」を使う菊池家は、歴史が浅く支族も少ないためごく少数派です。したがって、「蒙古襲来絵詞」の菊池家の家紋は描き間違いか、後年の描き直しであると言うことになります。庶流の豊田武光から、後醍醐天皇から下賜された「並び鷹の羽」紋を使うのですから。。庶子家の武光は豊田十郎と名乗っていましたが、阿蘇家の娘を妻としたため阿蘇家及び家臣団から支援もあり、弟の十四代武士を排除し、十五代菊池次郎武光と名乗り嫡流家の嫡子が名乗る次郎と改名もしました。本来の惣領制であれば、庶子家の武光は、嫡流家を補佐し武士を助け菊池家を盛り立てなければならないのです。しかし、下克上の戦国時代は厳しく、生存競争に明け暮れていた武光にもそれをさせなかったのでしょう。これ以後は、菊池嫡流家の血脈は歴史の表舞台から完全に消滅し、変わって庶子家の時代がしばらく続くことになります。そして、武光は庶流家でありながら嫡流家の嫡子のように菊池次郎武光と改名してあたかも嫡流家であるかのように演出をしたのです。しかし、家紋は変えなければならなかったのでしょう。それから、嫡流の血を引く者は、菊池家の歴史に姿を見せなくなりました。しかし、菊池嫡流家の血脈は途絶えたわけでもなく、歴史の表舞台から見えないところで、隠れ、帰農して、代々、細々とではありますが血脈を繋いでいるのです。

菊池家の碑文拓本


近衛歩兵上等兵菊池定介墓誌

昔、国家のために命を捧げた菊池武重という者があった。菊池武重は、一家を挙げて南朝に命を尽くした立派な人と云われている。それから長い年月が過ぎ、常陸の国久慈郡旧諸沢村の菊池歩兵は、その菊池武重の子孫として生まれ、身分を兵隊として国家のために命を捧げる信念に燃えた。君の名は定介、父は縫衛門、母は菊池氏の娘加津、明治五年九月二十六日生まれ。日清戦争のため近衛歩兵上等兵として第一軍に属し、出征に適したあなたは心おきなくこの役に尽くした。日本国の大事としてのんびりと過ごしているわけではなく、一刻も早く出発したのである。すでに船上の人となって、中国の野心を革めるべく志をたてたが、志半ばで明治二十八年四月十八日、無念にも中国柳樹村にて戦死された。(享年二十三歳)ああ、すでに従軍におもむき、敵とはまだ立ち及ばずに死したこと、何と不幸なことであろうか、しかし、また云うべくには、自ら死(病死と伝わる)をもって家風を辱めないその気風に、村人たちは悲しみながら、その不幸に厚情をよせ遺骨を先祖の墓に納めたのである。それは、同年八月一日のことであった。茨城県徴兵慰労議会より金十円、久慈郡軍人家族保護会よりまた五円と慰労、水戸旧藩主徳川公より戦死した将士として、その冥福を祈るべく金幣一郷の栄誉を賜った。翌年、陸軍省より追賞があり、その従軍の手柄に報いるために、弔慰金百五十円を特命代金として国債をもって澄まし、永らくその恩功を称えた。ああ、君の名を永遠に忘れないように垂れたもうたのだ。今ここに、その父縫衛門が記念碑を建てたいと請われ、私は文才もなく軍人でもないがこの立派な功績のあらましについての役目を全うしたい。
豹は死んでその皮を残す、菊は萎えて尚その香あり
君はその姓に恥じることなく 身は没しても名誉あるその名を残した。
また、さらに名誉あることには陸軍省より追賞を受け、その栄誉はますます高揚誉に達しその栄達明らかに感じられ、もって御霊を弔うばかりである。

明治三十年二月毅旦

                 水戸    手塚恵進撰

                 土浦 霞外 廣田 晋書

縁者からのメール
その一、
十四代惣領菊池又次郎武士について
十四代惣領菊池武士について、肥後の国の菊池氏からメールを頂きました。菊池武士は、八代市二見下大野町に松吟庵正福寺を開き、ここで九十一歳の生涯を終えたそうです。肥後の菊池氏のメール武士公が、なぜこのような八代の片田舎を永住の地とされたかを調べていたところ、貴殿のHPに行き当たりました。寺の裏山に墓所もあり、武士公が参拝していたと言い伝えの仏像(阿弥陀如来坐像)があります。仏像は博物館の調査が入っているため寺におられません。また改めてお知らせしたいと思います

武士公は、惨敗の責任をとる形で武光に家督を譲ずり、力量に乏しく、体も弱いといいうのが定説ですが、地域にも武士公は大変深く根ざしており、例年5月17日に昔は学校が休校になり、墓前祭が開かれていたと聞いています。
地域の小学校の校歌にも、「松吟庵の奥城に 武士公をともらえば」とあるくらいです。そのようなところから、私も武士公の歴史を学んできましたが、どうして、この地を最終的な安息?の地としたのかがどうもしっくり行かないところです。特に古文書が残っているわけでもなく、先に書いた仏像と何点かの遺品?(馬具等)があるくらいです。

私の疑問は
武士公の墓所のすぐ近く(10m)に「王の墓」と伝承される墓所群があります。地元の歴史研究家によると、歴代肥後の守の墓所の裏手に「天皇の墓」を一緒に祭る慣わしがあるとのことでした。これはその方が、菊池神社で取材した際に確認されたとのことでした。かなり古いもののようで、五輪の塔がいくつもあります。中に何箇所か石碑の字が読み取れそうなものもありますので 調査中です。 同時期の懐良親王の墓所(宮内庁認定のものは)ここから20kmくらい離れた、宮地地区にあります。この「王の墓」と呼ばれるものが、誰を祀っているのかは分かりません。

当時の情勢と武士公の足取り前述でもありますが、武士公がなぜこの地を定住の地とされたかの確たる理由が分かりません。もしかしたらこの墓所自体が本物でない可能性もあるとも言えます。再度の検証が必要です。 家督を譲られて、出家→加賀は分かっているのですが、その後30年ブランクがあり、菊池に戻られているようです。そのときに 詠まれた詩が墨染めの桜の詩です。その後この地に来られたかこの地より菊池に行かれたのかは分かりません。上記の疑問点が解決するように調査を進めているところです。各種の言い伝え、古文書等がないか家でも探しています。
以上
武士の墓碑、八代市


袖ふれし 花も昔を 忘れずば
わが墨染を あわれとは見よ
               武士
「昔は慣れ親しみ私を良く知っている桜の花よ、もし、今でも私を忘れないでいるのなら今の私のこの落ちぶれた姿を憐れんで下さい。」

(武士の歌碑、菊池市)
この歌は、加賀の祇陀寺から戻った天授二年の春に詠じたと言われています。かつて、菊池家棟梁として、正方と共に菊池家の隆盛に心を痛めた武士の察するに余りある歌です。

縁者のメールをありがとうございました。
私の家の裏山にも天道塚(天皇塚?)と呼ばれているところがあり、昔は、天道塚(天皇塚?)のお祭りには子供たちにおむすびを配りました。私も小学生の頃までは、おむすびを頂いて食べた記憶があります。それも時代とともに廃止されてしまい、今は天道塚(天皇塚?)も荒れ放題になっています。それが、天皇の墓として祀ったものかどうかはわかりません。私は、菊池家の「天道精神」を象徴するものと思っていましたが、そのような処ということをはじめて知りました。また、武士公は最後に八代市二見下大野町に松吟庵正福寺を開き、応永八年三月二十五日九十一歳の生涯を終えたと、多くの書籍などで伝えられています。ちなみに、裏山や天道塚は、昔は私の家のものでしたが今は人手に渡りました。
常陸国住人 菊池肇

天道塚(天皇塚?)
我が菊池家と氏神様の十二所神社天道塚は、ほぼ南北の直線上に位置しています。
風水では、「君主は南向く」と言う言葉があるそうですが、
南向きは日当たりも良く、まったく現実的な言葉です。
「東に青龍の棲む水辺、南に鳳の舞う平地、西に白虎の通う小道、北に玄武の守り。」
と城や家を建てるときには、風水の言葉を考えれば良いのかも知れません。

縁者からのメール
その2
アメリカ甲斐氏のメール
昨日、アメリカ ニュージャージー州在住の甲斐様(K.S様)よりメールを頂きました
祖国を離れて17年、異国に住んで、尚更に祖先を想う気持ちが強くなったとのこと。
阿蘇山を囲むように、九州には多くの甲斐の姓が今も存在し、ご自身はその数万人の一人にすぎないが、
もしかしたら、菊池家に縁があるかもしれないとのことでした。
家紋は「丸に違い鷹の羽」と言うことでしたから、
断言はできませんが、菊池家の古い血脈をお持ちかもしれないとも思いました。
異国にあっても祖先を想い、祖先に縁のある菊池家の子孫にあててメールを送る、
その細い血脈を想う心に感動いたしました。
どうぞいつまでも祖先の歴史を伝承して頂きたいと思います。
(祖先の歴史は換えることができませんが、今の私どもは甲斐家を仇敵と考えていません。)
その3
滋賀の福本氏のメール
菊池家家臣の子孫と伝承されている福本様よりメールを頂きました。
家紋は「丸に違い鷹の羽」を用いているそうです。
菊池家と同じ家紋を伝えられていることからも、強い関係があったのでしょう。
祖先は、足利氏との戦いで敗北し、滋賀に逃げ延びたとのことですから、
菊池家の家臣であったことは確かだと思います。

菊池家の建立した十二所神社

(後に菊池家の寄進によって村社となる)

家系研究協議会へリンク
私は、祖先の歴史研究を目的に入会しました。
祖先について調べたい、自分のルーツを知りたい、
と言う方は、気軽に上記のHPにお問い合わせください。
また、家系研究協議会では、新会員も募集中です。

菊池家当主 菊池肇(武肇=Taketada


肥後菊池家の血脈は、永遠に不滅です。