(太陽を表す日足紋)
(菊池家は、六代の菊池隆直までこの日足紋を用いました。)
菊池家最古のルーツは、いったい何処の誰なのでしょうか?
このページでは史実とされている文献をもとに、
大胆な推測で菊池家の祖先に迫ります。
「倭国」


中国の史書 魏志倭人伝に登場する倭国内の主な国の官の名称について、比較検討をすると、国が違っても同じような官の名称が記されています。これらは主に官名を記したと言えます。また、狗古智卑狗(くこち日子)のように地名プラス官名や邪馬台国の官、伊支馬(いきま)、次官、弥馬升(みまと)(その)次、弥馬獲支(みまわき)その次、奴佳(なかて)などのように、地名プラス名前も記されています。倭国女王の卑弥呼狗奴国王の卑弥弓呼も、魏国の記述による倭国女王や狗奴国王の名称であり、倭国本来の表現や文字ではないと思います。なぜなら、魏志倭人伝中の名称の多くは、倭国や倭人を蔑み軽蔑しています。倭国が自らこのような名称を用いることは、あり得ません。
たとえば、倭国の二大国でもある邪馬台国は、(正しくない良くない馬の高楼(高台)の国)であり、狗奴国は、(身分の卑しい犬や狼の国)と表現されています。また、
邪馬台国女王の卑弥呼は、(卑しいと重ね呼ぶ)であり、狗奴国国王の卑弥弓呼(卑しいと重ね呼ぶ武人)と表現され、官の名称にも、卑狗(卑しい犬や狼)、卑奴母離(身分の卑しい母と離れ)、泄謨觚(はかりごとがもれる文筆に携わる人)、多模(多くまねる、模倣)弥弥(ますます、とうとう、)などと表現されています。
しかし、伊都国の官、爾支(対等の支え人)に対しては、良い意味の表現として書いたのでしょう。「対等に支え合う者」と言う意味があり、記述した者と伊都国の官、爾支には、特別な友好関係があったのか、または良く知った間柄であったのだろうと想像することができます。また、伊都国には、魏国の宿泊施設もあったようですから、、、そのようなことから良い表現を用いたのかもしれません。この時代の倭国では、まだ、国王名や官名が統一された名称となっていない状態であり、かつ文字による表現も困難であったのだろうと推測しています。出身種族などの違いにより、いろいろな名称の表現が混在していたものとも考えられます。したがって、同じような名称を用いていた場合には、それらが同族か同一文化圏の出身者である可能性があると思われます。
そして、この時代には個人名としても官名や職名などを用いていたのかもしれません。
「魏志倭人伝の表現する倭国内の国名、官名」
同盟国および同名称、類似名称は、同色。()内は倭国本来の表現や読み方
国名官名、名称官名、名称官名、名称官名、名称国王、名称
対馬国
大官、卑狗(日
子)
副官、卑奴母離
(日の守)
一支国 
官、卑狗(日子)副官、卑奴母離
(日の守)
伊都国
官、爾支(にき)副官、泄謨觚
(しまこ)
奴国 
官、兇馬觚(しま
こ)
副官、卑奴母離
(日の守)
不弥国
官、多模(たも)副官、卑奴母離
(日の守)
投馬国
官、弥弥(みみ)副官、弥弥那利
(みみなり)
邪馬台
 
官、伊支馬(いき
ま)
次官、弥馬升
(みまと)
(その)次、
弥馬獲支
(みまわ
き)
(その)次、奴
佳(なかて)
女王、卑弥呼
(日見子)
狗奴国
官、狗古智卑狗(く
こち日子)
男王、卑弥弓呼
(日見弓子)
邪馬台国と狗奴国の戦争終結後
魏志倭人伝には「倭国では、卑弥呼の死後、倭国に男王(卑弥弓呼?)が立ったが戦乱は続き約1000人が死んだ、卑弥呼の宗女、十三歳の娘台与(豊=とよ)を倭国女王に擁立し、ようやく戦乱が収まった。」と記されています。
邪馬台国の比定地に重なる豊国(豊前、豊後)の地名は、台与(豊=とよ)が女王になってから、邪馬台国は豊国(とよのくに)と呼ばれたのではないかと考えています。
また、倭国女王の台与(豊=とよ)は、「台を与える」と表現されていますから、邪馬国をえられた女王としての名前「台与」でもあったように思います。
豊国
現在の福岡県と大分県の一部(豊前+豊後=豊国)
倭国女王台与(豊=
とよ)

(分析)

この時代、倭国では邪馬台国(赤色)狗奴国(緑色)の対立が激しく戦争状態が続いていました。魏志倭人伝には、邪馬台国の卑弥呼狗奴国の卑弥弓呼が国王として登場しますが、邪馬台国と狗奴国以外の国に国王は見当たりません。また、各国に官や副官が存在していますので、邪馬台国と狗奴国以外の国々では、官が最高責任者として行政をしていたのでしょう。女王卑弥呼の邪馬台国は、邪馬国を中心にした連合邪馬台国で、女王卑弥呼が各国に大官、官、副官を配していたと考えるのが合理的なようです。
邪馬台国は、小国の集合した同盟国家ですから、国ごとに官名の呼び方には違いがありますが、これは出身種族の異なりを意味するのだろうと思います。邪馬台国連合国のそれぞれの国の官や副官の出身種族が違えば、意見の相違を生じる可能性が高まります。その結果、邪馬台国連合国はまとまりのつかない、方向感の乏しい政権運営をせざるを得ませんでした。つまり、国家としての運営は大変厳しく、卑弥呼は強大な権力を行使できなかったように思えます。魏志倭人伝によると、卑弥呼は鬼道を操り人心を惑わす霊能力者であり、神懸かりとなってお告げをするとされています。これは、卑弥呼の権力基盤が、鬼道を操り人心を惑わす霊能力者としての力量にあったと言うことなのでしょう。一方、狗奴国は一国で邪馬台国と対峙するのですから、国家の規模は大きく、政治的に統一されていたようです。狗奴国の政権は安定し、国家としての意思決定も速やかで、国家としての力量も邪馬台国よりもさらに強大であったように思います。したがって、倭国を統一するに充分な力を有していたと考えられます。邪馬台国女王と狗奴国王の名称は、卑弥呼(日見子)と卑弥弓呼(日見弓子)となっていますから、この時代には、倭国に「女王」とか「王」という言葉はまだなく、魏の国の女王や王と言う意味で、卑弥呼(日見子)、卑弥弓呼(日見弓子)を用いたのだろうと思います。また、この名称が一字違いであることから、この二人は同一文化圏か同一種族の出身者であった可能性がおおいにあります。また、主な官名には、卑狗(日子)が3ヶ国、爾支(にき)、兇馬觚(しまこ)、多模(たも、魂)、弥弥(みみ)、伊支馬(いきま)があります。その中では、卑狗(日子)が一番多い官名で、邪馬台国にも狗奴国にもこの官名が存在します。副官名では、卑奴母離(日の守)、泄謨觚(しまこ)、弥弥那利(みみなり)、弥馬升(みまと)があり、卑奴母離(日の守)が一番多く4ヶ国のにあります。
また、泄謨觚(しまこ)は、官と副官のポストにあります。邪馬台国には、副官の下に弥馬獲支(みまわき)奴佳(なかて)があります。国王名や官名の中に、[卑」(日を意味するもの?)の文字が使われた名称が一番多いと言うことは、当時の邪馬台国や狗奴国の中で「卑」(日)の付く一族が最大勢力であったということではないでしょうか? この、「卑」は、魏の記載では卑ですが、倭国では「日」(太陽)を意味するのだろうと思います。菊池家の最初の家紋「日足紋」にも、日(太陽)が表れていますから、狗奴国と菊池家の関連が深いという根拠にもなり得るものと思います。
卑弥呼の死後、戦争は一時終結したのでしょう。その後、倭国は「男王を擁立したが、国中が納得せず、再び殺し合って1000余人が死んだ。」と書かれていますので、この倭国や国中と書かれた部分は、邪馬台国と狗奴国を含めた「倭人の国」全体の意味であろうと想像できます。倭国の男王とは、狗奴国の卑弥弓呼(日見弓子)かも痴れません。しかし、それで倭国中が納得せず再び戦乱に突入したと書かれています。邪馬台国連合の中から国王を擁立したのであれば、戦乱は収まったのかもしれませんが、敵国の国王を受け入れることはできなかったのではないかと思います。正始8年(247)に卑弥呼は支援を求め、魏に使者を送ったと記されていますから、卑弥呼の死は魏に支援要請の使者を送った後で、魏からの使者が邪馬台国に到着する以前であったと思われます。つまり、正始8年(247)の内に卑弥呼は死んだようです。しかし、邪馬台国と狗奴国の戦争では、どちらが優勢でどちらが勝利したのかも明らかではありません。その後、卑弥呼の血縁の娘、壱与を女王にして、戦乱は収まったと記されています。それは、卑弥呼の死から、何年くらい経っていたのかも定かではありません。中国の史書『晋書』「四夷伝」倭人条には、泰始2年(西暦266年)、邪馬台国が西晋に朝貢したことが記述されています。しかし、それ以降は西晋に朝貢した記録はありません。(泰始2年は、魏王朝が倒れ司馬氏の晋朝が成立した翌年です。)これから約200年間は、倭国や中国の歴史書に倭国の記載のな倭の歴史空白時代となります。
ちなみに、当時の武器は、「矛・楯・木弓をもちいる。木弓は下がみじかく、上が長くなっている。竹の箭、あるいは、鉄の鏃、あるいは骨の鏃 である。」と書かれていますので、すでにこの時代の倭国には鉄器が伝わり、兵器として用いられていたようです。


ここでは、魏志倭人伝に記された菊池家に関係すると思われる人名を挙げました。
女王卑弥呼=日見子(日を見る人)
魏志倭人伝によると卑弥呼は邪馬台国女王であり、鬼道を操り人心を惑わす霊能力者であり、神懸かりとなってお告げをするとされています。私は当時の倭国では、卑弥呼を日見子「日を見る子(人)」と言った意味で呼んでいたものと推測しています。それでは、日を見るとはいったいどのようなことなのでしょうか?たとえば、明日は、嵐が来るとか雨が降るとか、あと一月過ぎた頃には雪が降るとか、この長雨の後は晴れるなど日常の天気予報などで、これは、特に稲作との関連が大きいと思います。稲作をするためには、作業の日を見る必要があったのでしょう。当時の民はその耕作方法など分からず、種籾を何時に撒いたら良いのか、何時になったら稲穂を刈り取ればよいのか、脱穀の方法や時期なども知らなかったのだろうと思います。その耕作法を知っている卑弥呼(稲作をもたらした渡来人の渡来人の子孫かも知れません?)は、霊力を持つ者として尊重され、絶大な権力を持ち、祭祀や軍事、掟(法律)など当時の国家システムを一人で取り仕切る権限を有していたものと思います。つまり、霊能力者や呪術師、祈祷師のような存在でありながら、その知識や能力は人々の生活に大きな影響を持ち、常に人々に必要とされていたのではないかと推測しています。卑弥呼(日見子)とは、上記のような者の役職名であり、当時の倭国には女王と言う言葉はなかったのだろうと思います。
狗奴国王卑弥弓呼=日見弓子(日を見る武人)
魏志倭人伝の卑弥弓呼(日見弓子)は狗奴国王ですが、前述の卑弥呼(日見子)に弓が入っています。従って、前述の日を見る人であることは間違いありませんが、これは男王の名称ですから弓が入ることで武人であることも表しているのでしょう。これも、前述のような役職名であると思います。
狗奴国官狗古智卑呼=狗古智日子(鞠智の日子)
狗奴国の官狗古智卑呼(鞠智日子)は、狗古智(鞠智)が地名で卑呼(日子)は、日の子(王家の子孫)であることを表しています。つまり、鞠智の日子(王族)という官(将軍)のことです。官(将軍)は、王や国家を守るのですから、信頼のおける人物でなければなりません。このためには、身内の人間でなければなかったのだろうと思いますまた、菊池家の最初の家紋日足紋は、太陽を表す紋ですから、「狗古智日子」の日子(日の子)と関連があるのだろうと思います。
卑弥呼と卑弥弓呼は、同族?
卑弥呼や卑弥弓呼は、名称の類似性や一国の権力者であることからも、優れた身分の出身者であったのだろうと思いますので、稲作をもたらしたと思われる渡来系一族の子孫とも考えられます。もちろん、このころになると、先住民との混血が進み渡来系の人々と先住民の境はあいまいになっていたと思います。魏志倭人伝にはそのことについての記述はないようですから、そのことに明快な区別を感じることもなかったのでしょう。しかし、権力の継承は一族にとっての重大事であったように、卑弥呼亡き後は一族の娘から台与(とよ=豊)が女王に擁立され国内の騒乱は静まったと書かれています。卑弥呼には、夫も子もありませんから、一族の娘とはいったいだれのことなのでしょうか?ここで、先述の同族説を取れば、邪馬台国が狗奴国と融合してその中から女王を擁立した可能性があります。それまでは、激しく対立していた隣国同士でしたが、台与(豊)が女王になると急に戦乱が収まり平和になったのですから、その理由として考えられるのは、和睦または統一によって台与が女王に就いたからと言う理由かも知れません。また、福岡県、大分県に残る豊前、豊後などの地名は、分割される以前は豊国(とよのくに)と呼ばれていました。これは卑弥呼の宗女である台与(豊=とよ)の国と重なりますし、邪馬台国は、邪馬渓や山国川(やまのくにかわ=邪馬の国の川)とも重なります。台与は邪馬台国の女王ですから、邪馬台国の比定地である邪馬渓(邪馬台)にも重なります。このことからも、邪馬台国は、福岡県と大分県にまたがる豊前、豊後地域にあったと言う根拠になるのです。もちろん、菊池家の祖先の可能性が高い狗古知卑呼も、狗奴国(球磨国)の官ですから、卑弥呼や卑弥弓呼と同族の渡来人であったのかもしれません。

邪馬台国と狗奴国の特定
1、狗奴国の官狗古知卑呼
「菊池家のルーツは、魏志倭人伝に登場する狗奴国の官狗古知卑呼(狗古知日子=クコチヒコ)なのか?」、、、そもそも「狗奴国や邪馬台国は、いったい、どこなのか、、、?」「邪馬台国や狗奴国は、九州にあったのか、、?それとも、、、畿内にあったのか、、、?」邪馬台国や狗奴国が、九州になければ、菊池家との関連もなくなりますので、ここでは、「九州説」に基づき検証をしてみます。
2、邪馬台国VS狗奴国
「敵対する二大勢力は、海に囲まれた一つの島(九州)の中に存在していた。」と、私は考えています。しかし、この二大勢力以外が九州に存在していたのか?いないのか?魏志倭人伝の記述では全く不明です。邪馬台国東方へ水行千余里で、倭種の国があると書いてありますから、九州の東に、倭国が続いていたことは、分かっていたのでしょう。このことから、記述がないだけで、魏の役人は、狗奴国の南には国がないことを分かっていたのかもしれません。
a.魏国から邪馬台国への道程
魏志倭人伝によると、邪馬台国へは、狗邪韓国から水行千余里で対馬国(対馬市)に至る。また、南に水行千余里で一大国(一支国の誤写=壱岐国、壱岐市)に至る。また、海を南進すること千余里で末盧国(佐賀県松浦市)に至る。また、末盧国から東南に陸行すること五百里で伊都国(福岡県糸島市)に至る。また、東南に行して百里で奴国(福岡市中心部、那の津)に至る。また、東行して百里で不弥国(福岡県宇美町)に至る。南に水行して投馬国(熊本県玉名市)に至る。また、南行して邪馬台国(大分県中津市邪馬渓町)に至る。女王の都するところである。水行で十日、陸行で一月。女王国の東方に水行すること千余里で、また国(本州?四国?)があり、これはみな倭種である。と、邪馬台国への案内は上のような内容で書かれています。
b.航路及び行程の推測
下の図は、上の推測をもとに大まかな地図を作成しました。
邪馬台連合国(ピンク)、邪馬台国(レッド)、狗奴国(イエロー)
狗邪韓国から末盧国を経て伊都国までの航路は黒線伊都国から投馬国までの20日の航路は緑線伊都国から邪馬台国までの10日間の航路は赤線、陸路は茶線で表しました。
卑弥呼は、邪馬台国の女王であり、邪馬台国は連合国家であったと考えています。邪馬台国の東方へ水行すること千余里で、倭種の国があると書かれていますので、これは本州か四国を指しているのだろうと思います。

c.当時の国家の規模は、現在の市町村の規模
縄文、弥生時代の国家としての規模は、大小さまざまではありますが中世のように大きなものはなく、現在の市町村程度の規模であったと考えたほうが分かりやすいでしょう。たとえば、対馬国(対馬)、壱岐国(壱岐)、末盧国(松浦市)、伊都国(糸島市)、奴国(福岡市中心部、那の津)、不弥国(福岡県宇美町)、投馬国(熊本県玉名市)、邪馬国(福岡県と大分県にまたがる豊の国、つまり豊前、豊後地方で、邪馬国は女王国ですから広大であったと考える)を挙げれば、それぞれが小規模の国々であったことがわかります。
d.邪馬台国の境界の国々の比定地
市町村規模の国家ですから、邪馬台国連合国家の規模は、現在の九州北部、福岡県、大分県、佐賀県、長崎県の一部、熊本県の一部だと言うことになります。(検証には、古代地名辞典を用いましたので、現在の地図にはない地名もあります。)
e,次の比定地の表をご覧ください
             第一比定候補地           第二比定候補地
斯馬国(しばこく)佐賀県神埼市神埼町志波屋(しば)福岡県早良区椎原(しいば)
已百支国(いわきこく)佐賀県三養基郡(みやき)
伊邪国(いざこく)福岡県京都郡みやこ町山(いさ)大分県中津市三光町
都支国(としこく)福岡県西区今津(志摩郡登志=とし)
弥奴国(みなこく)福岡県朝倉市林田字ひな城(水際=みなぎ)
好古都国(をかだこく)大分県豊後大野市緒方(おがた)
不呼国(ふここく)大分県宇佐市宇佐東部(封戸=ふご)
姐奴国(さなこく)不明
対蘇国(とすこく)佐賀県鳥栖市(とす)
蘇奴国(さなこく)佐賀県佐賀市(さが)
呼邑国(おぎこく)佐賀県小城市(おぎ)
華奴蘇奴国(かなさきなこく)佐賀県神埼市(かなさき)
鬼国(きこく)佐賀県基山町(きのき
為吾国(いごこく)福岡県田川市から田川郡糸田町に至る位登=いと)
鬼奴国(きなこく)福岡県田川郡福地町(城田=きだ)
邪馬国(やまこく)大分県日田市(邪馬渓)
躬臣国(くじこく)大分県玖珠
巴利国(はりこく)佐賀県小城氏小城町気(はるけ)
支惟国(きいこく)佐賀県鳥栖郡北部(基肄=きい)
烏奴国(あなこく)大分県由布市庄内町(阿南=あなみ)
奴国(なこく)福岡市中心部(の津=なのつ)
(地名のみを比定しただけですから、国々の領土の境界や面積は考慮していません。)
3、狗奴国(熊、球磨国)の推定
「魏志倭人伝」には、約2000文字で、3世紀前半の倭国(日本)の状態が記されています。「狗奴国(くなこく)は、女王国の境界の尽きた其の南にあり男王の国である。」
「狗奴国には、長官として『狗古智卑狗』(くこちひこ)がいて、狗奴国は女王の国に属していない。」と、書いてあります。このことから、女王国の境界の尽きた所が狗奴国(くなこく)ですから、熊本県、宮崎県、鹿児島県、長崎県の南九州四県が狗奴国と言うことになります。
狗奴国と邪馬台国は、永い間戦争状態にあり邪馬台国の卑弥呼は、正始元年から4年、6年、8年と、魏に遣使を出しては支援を求めました。しかし、朝鮮半島の政治情勢から、魏の使者はなかなか日本に来ることができませんでした。邪馬台国に、魏の使者がやってくるのは正始8年(247)の事です。魏は、塞曹掾史(さいそうえんし)張政等を派遣し、激励のための詔書・黄幢を難升米に授け、檄文を為って戦いを激励したが、
女王卑弥呼(日見子=ひみこ)は、この時、すでに死んでいたと書いてあります。卑弥呼が戦争で殺害されたのか、病を得て死んだのか、死因は明確ではなく、正始8年(247)、邪馬台国に魏の使者の使者が来た時には、卑弥呼すでに他界していて、使者は卑弥呼の死を確認したようです。正始8年(247)に卑弥呼は支援を求め、魏に使者を送ったと記されていますから、卑弥呼の死は魏に支援要請の使者を送った後で、魏からの使者が邪馬台国に到着する以前であったと思われます。つまり、正始8年(247)に卑弥呼は死んでいたようです。卑弥呼が死んだ後、倭国は再び戦乱に突入したと書かれています。卑弥呼の亡き跡は、倭国は「男王を擁立したが、国中が納得せず、再び殺し合って1000余人が死んだ。」と、魏志倭人伝にあるように多分、倭国では卑弥呼の死後、ポスト卑弥呼をめぐり戦になったようです。しかし、邪馬台国と狗奴国の戦争では、どちらが優勢でどちらが勝利したのかも明らかではなく、その後、卑弥呼の血縁の娘、壱与を女王にして、戦乱は収まったと記されています。卑弥呼の死から、何年くらい経っているのかも定かではないのです。
魏志倭人伝には、
「政等、檄を以て壹與を告喩す。壹與、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、
政等の還るを送らしむ。因って臺に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大勾珠二牧、異文雑錦二十匹を貢す。」
とありますので、女王壱与は、正始8年(247)に来た魏の使者に多くの貢物を贈り、
倭の使者20人を遣わして使者が魏に帰るのを送らせたとあります。
魏の使者が帰る時には、壱与が倭国の女王となったようですから、
たぶん卑弥呼の死からそんなに間は空いていないと思われます。
また魏の軍勢が戦闘もなく帰っていったので、
魏の使者が来た時にはすでに紛争は終息していたのでしょう。
これで邪馬台国は、狗奴国との闘いには勝利したのかも知れないし、
狗奴国が魏の軍勢を恐れて邪馬台国と和睦し停戦をしたのかもしれません。
魏志倭人伝は、この最後の赤い文字の文章で完結しているのです。
4、邪馬台国の滅亡
その後の中国の史書『晋書』「四夷伝」倭人条には、泰始2年(西暦266年)、邪馬台国が西晋に朝貢したことが記述されている。しかし、それ以降は西晋に朝貢した記録がない。泰始2年は、魏王朝が倒れ司馬氏の晋朝が成立した翌年です。当時、邪馬台国に対抗していたのは狗奴国だけですから、狗奴国が邪馬台国を滅ぼしたと考えるのが自然であるように思えます。泰始2年(西暦266年)の使節派遣を最後に、台与の「邪馬台国」は中国の史書から消えたのです。邪馬台国の滅亡は、西暦266年以降ですが、はっきりとした滅亡の年代は不明です。邪馬台国を滅ぼした勢力は、倭国統一に向けての戦闘をさらに激化させていったようです。
5、新しい統一国家としての倭国
それから倭国が中国の史書に登場するのは、永初2年(西暦421年、)南朝の宋の時代の事です。倭の五王の一人「讃」(さん)は、宋に使節を送ったと記されています。
讃(仁徳天皇?)は「倭国王」として記されています。壱与の時代の泰始2年(西暦266年)から数えて、永初2年(西暦421年)までの、約150年間に倭国の戦乱が、ほぼ終結し倭国の統一がされ、新しい王朝が出現したのです。日本の歴史上の「謎の4世紀」と呼ばれた空白の150年間は、中国の史書にはありませんが、邪馬台国の滅亡後、邪馬台国を滅ぼし、邪馬台国と融合した勢力(女王台与=豊の子孫なのか、豊を滅ぼした勢力なのかは分かりませんが?)による、倭国の統一のための激しい戦闘が繰り広げられていた時代でもあったのだろうと思います。
6、鉄器時代の到来
この倭国成立の時代は、石器や銅器から新しい技術としての鉄器へと替わる過渡期でもありました。大陸からの新しい鉄の農具や武器、馬などが、大陸に近い九州地域に登場したことによって、これを好機ととらえた九州地域を統一した勢力は、東進を決意したのはほぼ間違いありません。倭国内の戦乱は、九州からさらに東に向かって拡大し激化していったのだろうと思います。こうした新しい技術や文化は、常に大陸からもたらされていたことから、地理的優位性のある九州地方は、他の地域より早く大陸の技術や文化が取り入れらていたのです。そのことが、当時の製造年代の鉄器などが出土する地域としても九州が圧倒的に多く、大陸の技術や文化が、九州から東へと伝播した様子が明確になっています。
7、完全な統一国家への道
大陸から伝わった新しい鉄製の武器や馬などの戦闘用のアイテムを、倭国で一番早く手に入れた九州統一勢力の東旋に大きく推進しています。それまでの、石おのや銅剣での戦いはすでに古く、九州勢が、戦闘力で大きく東の勢力を上回っていたのことは間違いないでしょう。東の在地勢力は、少しずつ崩壊し九州勢力に吸収され、少しずつ同化して従っていったように考えています。九州地域には、中国や朝鮮からの渡来人も多く、彼らが戦闘に参加したのかもしれません。また、彼が倭国に縁を持って国王になったのかも知れません。謎の時代のことですから、想像の域を出ませんが整合性のある想像をしたいと思います。讃(仁徳天皇?)が宋に使節を送った永初2年(西暦421年)は、
すでに戦乱も落ち着き、倭国が統一されて5王国の連合国家となっていたのでしょう。
讃は、倭国を代表する国家の王として君臨していることを、宗に認めさせたかったのかもしれません。
8、文化の優位性
また、国家を運営する政治システムや行政の仕組み造りにも、大陸に近い九州勢力の知識や能力が優っていたのでしょう。このことからも九州から東進した勢力には、安定した国家造りのための力量がもともとあったのかも知れません。以後は、大陸の文化や技術を取り入れ続けながらの安定成長期に入ったのだと思います。
9、狗奴国は?
大陸に近い九州の地理的優位性による文化的、技術的優位性を考えると、邪馬台国や狗奴国は九州にあったと考えるのが妥当です。魏志倭人伝の邪馬台国も、その南の狗奴国(球磨)も地名として残っているし、邪馬台国と狗奴国の方角や位置関係も九州説に合致しています。また、魏志倭人伝にも-倭の地は温暖にして、冬夏生菜を食す-とあるので、倭国は、冬に雪の多く降るような地ではない。このことから邪馬台国九州説は、正しい歴史認識だと言えます。つまり、狗奴国が南九州にあったと言うことは間違いないと断言できます。この当時は、倭国において文字は使用されていなかったと考えていますが、和名を中国式の音表記の文字で表せば、和名と史書の多少の音の誤差はあって当然です。英語を、カタカナやひらがなで書くのと、同じことなのですから。ましてや、英語を漢字で書くことは、どれほど困難なのか、、。考えれば当たり前の話です。
10、狗奴国の国王の子孫達は、、?
狗奴(球磨)国の国王の直接の子孫は、不明ですが、古代から熊野(球磨)神社を氏神様(古代には、祖先を神と崇め氏神様としている)としてお祀りしている一族は、狗奴国の大王かその祖先を祖先神(氏神様)として崇めていることになるので、その一族は狗奴国の国王の子孫か、狗奴国王に縁のある家系の可能性があると思います。
11、狗古知卑呼の子孫は、、?
狗古知卑呼(くこちひこ)は、前述のような表音の解釈を入れれば、九州の鞠智や菊池(きくち)あるいは久々智(くくち)に通ずるように思えます。昨年、鞠智城跡から出土した小さな仏像は、千手観音菩薩で熊野神社の「第一の神様」つまり本地仏です。元々の鞠智城が、菊池家の築城によるものかどうか定かではありませんが、七世紀後半の朝廷による鞠智城改修の以前は、菊池家の居城であった可能性も否定できません。菊池家の氏神は、狗奴国の大王を祀った熊野神社であり、その本地仏が鞠智城から出土した事実と現在の菊池家の氏神熊野十二所大権現は、祖先を同じくすることの証となるものです。ちなみに、菊池家のかつての氏寺、九州肥後の輪足山東福寺の本尊も千手観音菩薩ですから、これらの事実は、狗古知卑呼が菊池家の祖先であったことの証になるかもしれません。また、狗古知卑呼は狗奴国の大王”卑弥弓呼”の縁者でもあったと考えることもできます。菊池家にも、古い時代の千手観音菩薩が現存しているので、狗古知卑呼は、菊池家の古い祖先になるのは間違いないだろうと考えています。
12、九州の狗奴国勢力が東旋した後
九州に残った勢力は、その役割として大陸との交易や防衛に当たったのだと思います。
菊池家も九州に留まり、そのような任にあったとものと考えることができます。熊野神社は紀伊に移り、紀伊熊野神社となりました。紀伊にある熊野神社は、九州からの勢力が氏神として建立したのでしょう。熊本と言う地名は、ずいぶん後からできたようですが、球磨国の元という意味になるのかも知れません。菊池家は一時期、便宜上、、、?藤原姓を名乗りましたが、則隆の時代になると、すぐに元の菊池姓に戻しています。
13、狗奴(球磨)国を含む勢力の東旋を裏付ける
魏志倭人伝にあるように、狗奴(球磨)国が邪馬台国以南に位置していて、しかも、その狗奴(球磨)国が東旋したのだと仮定すると、、、。記紀に書かれている天孫降臨の地としての「高千穂」や、アマテラスが隠れていた「天岩戸伝説」の洞窟も、かつての狗奴(球磨)国があったとされる処に重なるので、狗奴(球磨)国を含む勢力の東旋を裏付けることが可能となります。もちろん、魏志倭人伝や記紀の通りに解釈すればですが、、、、?紀伊にある熊野は、九州から東旋した熊野勢力が残した東旋の証拠でもあると考えています。三種の神器(八尺瓊勾玉、八咫鏡、草薙剣)とされる、品々も銅器や鉄器時代以降の話で我が国としてそれほど古い話ではないと思います。三種の神器の話は、邪馬台国と狗奴国の戦乱以降の話であろうと推測しています。記紀は、多くの歴史的な事実をうまくつなぎ合わせて創作したもので、当時の政権の正統性を主張するために、政権に取って都合よく創作したものと考えて間違いなでしょう。このため、都合の良い解釈でしたから、つじつまの合わない部分や歴史的整合性にかける部分が出てくるのは当然です。
14、狗奴国の大王は熊野の神として残る
熊野牟須美大神・事解之男神(本地仏は千手観音
狗古知卑呼(鞠智日子>比子>彦)は、狗奴国の官として魏志倭人伝にも有り、実在の人物と考えられるが、そもそも卑呼(日子)とは何を意味しているのだろうか?
邪馬台国女王の卑弥呼(日見子)、狗奴国王の卑弥弓呼(卑呼弥呼の書き損じで日子見子と想定)は、その名称から推測すれば、共に同系の文化を持った一族であったように推測される。同族であったとは考えられないが、可能性は排除すべきではないだろう。

15、卑呼(日子>肥子>彦)とは、何を意味するのか
魏志倭人伝には、狗古知卑呼(狗古知日子、くこちひこ、くくちひこ、きくちひこ)や卑弥弓呼(日子見子)、卑弥呼(日見子)などの日(太陽)にまつわると思われる名称が登場する。しかし、当時の倭国には、まだ文字が発達していなかったのだろう。
魏人は、倭人の言葉で伝え聞いたこれらの名称を文字として表すのに、倭人を蔑視したようなさげすみの文字で書いたのであろう。
倭人の言葉を文字としてわれわれ現代人が、書くとすれば上の()の中のような意味になるのだろう。卑弥呼は、日見子であり卑弥弓呼は日子見子、狗古知卑呼は、狗古知日子となる。つまり日(太陽)を意味する名称と考えられ、卑弥呼は日を見ることが仕事であり、リーダである。当時の人々にとっては、非常に重要な役割を担っていたのではないかと見る。狗古知卑呼(狗古知日子)は、狗古知(こくち、くくち、きくちへと変化した)の日子つまり王族かも知れない。卑弥弓呼は、卑呼弥呼(日子見子)の書き違いと考えれば、日を見る役割を担ったリーダーであり王を意味するのだろう。
現代の巫女(みこ)も、神に仕えるので、古代の名残りを感じるが、弥生時代はリーダーであり女王ですから、現代とは、違う意味で用いられていた。

菊池家の祖先は、鞠智郡の豪族
菊池家の祖先は、最新の研究で七世紀後半に百済人らによって修復された熊本県の古代山城、鞠智城の修復以前の元々の鞠智城に縁のある豪族であると考えています。大和政権の成立後も、各地に豪族が存在し大和政権を支えていのだろうとおもいます。現在のような中央集権的国家ではなく、地方の政治は地方の豪族にゆだねるような政治がおこなわれていたと見ています。大和政権も国家として、資金や人員の工面はしたのだと思いますが、地方の豪族の力がなければ、実際は何もできにかったのだろうと思います。
鞠智と言う地名は、現在では菊池と書きますので、熊本県菊池市あたりでしょう。鞠智は、大陸に近く古くから大陸の文化の伝来を得て栄えていましたので、当時としては豊かな文化都市でもあったろうと思います。大和政権が鞠智城を修復したとされていますが、それより以前に、鞠智城は戦で破壊されていたのかも知れません。(朝廷による熊蘇征伐で)鞠智城は元は鞠智の豪族(古狗智日子の子孫=熊蘇)の居城であったのかもしれません。しかし、修復後には大和政権を支えるための防人や武器、食料を蓄えるための兵舎や倉庫として利用されたのだろうと思います。中国の魏志倭人伝に登場する狗奴(くな)国の官古狗知卑呼(こくちひこ)は、わが国の歴史上の記録に残っている最も古い人物ですが、球磨国(クマコク)や鞠智彦(キクチヒコ)の発音は、魏(中国)人の耳には、クナコクやクコチヒクと間違って聞こえたのかもしれません。また、倭人は魏の文字を良く理解できなかったのだろうと推測しています。古代には、言語の壁が大きく、大きなコミニュケーションギャップがあったと考えられます。魏志倭人伝の狗奴(くな)国の官古狗知卑呼(こくちひこ)は、そのような言語のギャップによる間違いで記されて残ったのでしょう。この古狗知卑呼(鞠智(きくち)日子)が、最も古い菊池家の祖先と考えられます。私は魏志倭人伝の狗奴国は、球磨国のことと考えています。3世紀頃に九州の熊本以南に広大な領土を有する国であったと思われます。このことからも鞠智(菊池)の姓は、わが国の歴史上最も古い姓であろうと思います。その鞠智日子の子孫が、鞠智城の豪速であり菊池家の祖先でもあると考えています。
百済由来の仏像から推察すると
熊本県の鞠智城跡から「百済由来の菩薩立像」が発掘されました。熊本県教委の発掘調査で発見されたもので腐食が進み、細部の形状は不明ですが、この百済由来の菩薩立像は、腕の組み方の特徴とその形状から推測すると、千手観音菩薩像であろうと思いましたが、その後菩薩立像であることが判明致しました。。

       (菊池家仏像)              (鞠智城跡から発掘された仏像)
両方の仏像は、胸の前で手を合わせ、腹部あたりに宝鉢を持っています。
鞠智城由来の仏像は、長い間地中に埋まっていたために腐食が進み、
体側の手の部分は、不明で形状は似ていますが違いました。
菊池家は古くから、鞠智城に縁があったのではないかと推測されます。
ちなみに、菊池家氏寺の輪足山東福寺本尊や熊野十二所大権現の第一の神様は、
千手観音菩薩ですから、関連があると思ったのですが、残念でした。

藤原氏系図による検証
最新の研究で、藤原蔵規(政則)は、藤原氏を自称していたのであり藤原氏ではなかったことが判明致しました。菊池家は藤原の出であることを、大きな誇りとしていたことは歴史上も明らかです。しかし、私の調べた限りでは、藤原氏系図に藤原隆家の子藤原蔵規が見当たりません。また、また藤原隆家の子の経輔の子とする説もありますが、藤原隆家(979年ー1044年)の子の藤原経輔は、1006年生まれ1081年没となっているのですから、藤原経輔の子が藤原蔵規だとすれば、当時の結婚の年齢を15歳から16歳と仮定すると藤原経輔は1021年から1022年に結婚したこととなりますので、1019年に起きた刀伊の入冠の時に、蔵規はまだ生まれてもいません。従って、蔵規が刀伊の入冠を撃退することは、年代的にありえないでしょう。蔵規は、藤原隆家の子でなければ年代的に、多いに無理があります。しかし、藤原氏の系図には、蔵規が誰の子であるのか明確に表れていません。藤原氏説には、このように不自然な点が多く合理性を見出すことが不可能です。藤原氏を出自としたのは自称であり、当時の最高権力者藤原氏を名乗ることに、
誇りや打算的合理性を見出したのかも知れません。しかし、その子則隆は菊池家の由緒を知っていたのでしょう。鞠智(菊池)姓を捨てきれずに菊池姓を名乗ったのだろうと思います。藤原氏があまりにも大族で、その子孫を名乗ることへのプラス面は多く、
その後も藤原姓を完全には捨てきれず、藤原氏の子孫であると言い続けたのかもしれません。
菊池家の祖先が、狗奴国の狗古知卑呼であれば。次のようになります
熊国の大王(おおきみ)を祖先神球磨の氏の神様としてお祀りしたのが、熊野神社ではないかと考えています。熊本の地名は、熊野の元であり紀伊熊野は、九州の熊野勢力が紀伊に進出して紀伊の熊野と称したと考えます。球磨国の王は、ひみくこですが名前の似ているところからも、卑弥呼とは遠縁となるような間柄ではなかったのかと思います。球磨国と邪馬台国は永い間争っていたようですが、卑弥呼が没すると一族のとよが13歳で女王になり平和となったとされていますので、元々は縁戚であったのだと思います。また、球磨国の官鞠智彦も縁戚であったように思います。熊野の大王を祖神としていたのではないかと思います。菊池家の氏神様は、熊野神社の十二所大権現ですが菊池城跡からも千手観音が出土していることから見ても菊池彦が菊池家の祖先であれば、熊野の大王を祖先神としてお祀りすることに合意性を見出すことができます。

狗古知卑呼(西暦200年頃ー250年頃、邪馬台国の卑弥呼と同時代)
300年
400年
500年
600年
白村江の戦い(西暦663年)で朝廷は百済を支援

鞠智城の改修工事(7世紀後半)
(百済製の仏像が造られ百済人によって持ち込まれた)
(様式から菊池家伝来の仏像もこの時代のものと推測される)

700年
800年
900年
1000年
藤原蔵規(政則)(西暦1019年の刀伊の入冠で活躍し、藤原隆家より藤原姓を賜る)
藤原(菊池)則隆(菊池家初代、藤原隆家の隆の字と蔵規(正則)の則の字を取って則隆とする)

菊池家代々
菊池次郎武重(西暦1333年旧の3月12日、菊池家13代惣領になる)

菊池家代々(約670年)

現在、菊池武肇(西暦2009年1月吉日、菊池家三十八代)
となります。
狗古知卑呼から数えると、約1800年も続いている鞠智(菊池)の姓は、実に古い姓と言えます。

今までの説では、、、、、、。
初代の藤原則隆が菊池の郡に居を構え定住したのが起こりとされていました。私は、幼少時に祖父の末弟八郎に、我が家の祖先について聞いたところ。「元々の祖先は、関西の出で藤原と名乗っていたらしい。」と答えたのでした。その時は、それがどのようなことを意味するのかもわからず、それ以上の知識や興味もなく、それから長い間、祖先のことは忘れていました。しかし、それから三十数年の時を経て、祖先の歴史と対峙した時、その時の八郎の言葉が、記憶の隅から泉のように溢れては私の脳裏を彷徨いました。何しろ、一千年も前の古いことですから、調べようもないと思ったのですが、祖先の気持ちを想像すると、早速、行動せずにはいられませんでした。私は祖先の歴史を調べるにつれて、我が家の伝承と残されている歴史が合致しているのですから、菊池家は藤原一族の末裔であることを疑うことはできませんでした。政則は隆家の側室の子であったために、藤原一族の系図に明確な形で現れないのか、、、?あるいは、政則は隆家の側室の娘と結婚(藤原隆家の養子となる)をして藤原姓を名乗ったのか、、、、?などと考えた方がつじつまが合うのでは、、、?、、などと考えましたが、、、。隆家が、寛仁三年(1019年)に刀伊の入冠を撃退したことは有名であり、このとき藤原政則も多いに奮戦し名を上げています。そして、この時すでに藤原姓を名乗り隆家の子孫であると称しているのですから、私は、この時、政則は藤原家の血脈を得ていたものと考えていました。当時、藤原道隆の子「隆家」は大宰府権師、その子と名乗る藤原政則は部下の大宰府官でした。政則が藤原隆家の子であると名乗ったのは、最新の研究のとおり自称かもしれません。または、本当に藤原家と縁があったのかもしれませんが、あまりにも古いことですから、出自がどうであれ、藤原政則の子である則隆が菊池家の初代であることに違いなく、すでに一千年もの時が過ぎ、現在も菊池家は継続しているのですから、と考えていましたが、、、、、、。私の調査で藤原氏ではなく鞠智家の末裔ということが分かりました。藤原蔵視(政則)は、藤原氏を自称していたのであり藤原氏の子孫ではなかったのでしょう。藤原氏説には、前述のように不自然な点が多くありましたが、今までは合理性を見出すことが出来ませんでした。この発見(菊池家の出自)によって、はっきりと説明がつきます。要約すると藤原蔵視は、藤原隆家から藤原姓を賜り藤原氏を名乗ったのであろうと考えられます。しかし、則隆は、元の鞠智(菊池)姓を捨てきれず菊池姓を名乗ったということです。しかし、藤原氏があまりにも大族であり、その子孫であると言うことの優位性のために、なかなか藤原姓を捨てきれず、その後も藤原氏の子孫であると言い続けたのかもしれません。

<祖先は、実に旺盛な行動力で戦い続けました>
政則、則隆は、一族を南朝の雄にまで繁栄させる土台を創りました。
そして代々、存亡を厭うことなく、信ずるもののために力の限りに戦い続けました。
一族間の争いは残念でしたが、歴史にのこる菊池家の姿は南朝の忠臣であり続けました。子孫として、強い誇りを感じています。
そして今、菊池武重を祖先とする我が菊池家は、常陸に居を構えています。祖先の歴史を振り返り、その旺盛な行動に感無量です。人はだれも多くのしがらみに縛られ、誰もがそのしがらみの中で錯覚に陥り、自由な行動を自ら制限しています。しかし、本来、何人も自由であり、自由に行動して活路を開くべきだと知らされました。
今、私自身が祖先から直接人生の教えを請うたような、そんな気がしております。
菊池家の末裔として微力ではありますが、私なりに人生を切り開く覚悟をで、
このHPを公開したところです。
菊池家に縁のある方に、メールを頂ければ大変嬉しく存じます。

菊池家当主

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